おうし座
謎と閃きの紙一重
被造者の畏
今週のおうし座は、ゲッセマネの夜のイエスの態度のごとし。あるいは、改めて深い「謎の感覚」を人生に取り戻していこうとするような星回り。
20世紀を代表する宗教学者のルドルフ・オットーは、神の幽暗で不可解なあり方に深く分け入り、神学が提示する神の合理的側面(「信じる者は救われる」等)に対して、非合理的側面を強調し、それは人間の神に対する戦慄的畏怖(ヌミノーゼ)において立ち現れるものと分析しました。
例えば、処刑前夜のイエスが最後の晩餐後に祈りを捧げ、またユダに裏切られ捕えられた場所として知られるゲッセマネの夜のイエスの態度について、オットーは「この秘義と戦慄とのヌミノーゼの光に照らしかつそれを背景として、私たちは最後にまた、ゲッセマネの夜のイエスの苦闘を見、そしてそこでは何が問題であったかを理解し追感せねばならない」と前置きした上で、次のように問いかけます。
この魂の根底まで揺り動かす震駭と逡巡、この死ぬばかりの懊悩、この血の滴のように地上に流れる汗、これらは果して何の故であるか。普通の死の怖れだろうか。すでに一週間以来死を目前に見ていた者、明白な自覚をもって死の晩餐を弟子達と共にした者に、そんなことがあり得るだろうか。否、ここには死の怖れ以上のものがある。ここには、戦慄すべき秘義の前に、畏怖に満ちた謎の前に感じた被造者の畏がある。『聖なるもの』
すなわち、ここには人間が人間に対して感じる不可解と同じレベルの死の恐怖を超えた、それ以上の「謎の感覚」があった。つまり、神の不可解がこの上なく拡大されていたのであり、そうであったからこそ、十字架にかけられたイエスの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という叫びにも似た問いかけはただ虚しく響くのではなく、相応の答えを得たのではないでしょうか。
11月5日におうし座から数えて「なぜ?」を意味する4番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、何かを問うという行為をこうした「謎の感覚」とどこまで連動させることできるかどうかを少なからず問われていくはず。
ハイデガーの「世界の閃き」
普段生きられてはいるが、ほとんど明示化されることはない習慣的な動作や、技能と環境のカップリング(相互結合)、あるいは、文化を通して伝承され反復されてきた社会的コンテクストなどなど…。
これらをハイデガーという哲学者は「道具的全体性」と呼び、私たちがなんとなく生きていけるのは、そうした私たちのさまざまな活動を可能にしてくれれば、制約しもするひとつひとつの道具的存在(例えばごみの分別だとか、来訪者にお茶を出すなど)がみずから目立たず“背景”にとどまることによって機能しているからなのだと述べました。
逆に、そうして機能していた道具が何らかの形で利用不可能になるとき、私たちは日常において背景となって働いていた「世界が在る」という語り得ぬ神秘を垣間見ることになり、それを「世界の閃き」と名づけたのでした。
今週のおうし座もまた、謎の感覚の深まっていく中で、「閃き」という形でふだん自分が生きている「世界」を感じとっていくことができるかも知れません。
おうし座の今週のキーワード
神の不可解のこの上ない拡大≒普段は目立たない背景的なコンテクストの痛感