おうし座
彼岸いきという快楽を見すえて
自らの青春の終局
今週のおうし座は、『磧 (かわら)にて白桃むけば水過ぎゆく』(森澄雄)という句のごとし。あるいは、ここしばらくの自身の生活においてエポックメーキングになるだろう区切り目を感じとっていこうとするような星回り。
「白桃(はくとう)」は秋の季語。ふつうに読むとなんだか奇妙な感じのする一句です。というのも、句全体の調子はなんだか平板な感じがしますし、「白桃むけば」という自身の行為と「水過ぎゆく」という目の前で生起する出来事には因果関係は何もないはずです。しかし、ここではあたかも関係がありそうに詠まれている。
おそらく、内面において「白桃」の重みやみずみずしさと、流れ去っていく「水」の存在感とその透明感とがあいまって、作者の心境がここではないどこかへとふいに飛んだのでしょう。だとすると、「磧(かわら)」というのも実際のロケーションというより「彼岸」に近い感じがします。つまり、生きて在るこの世としての此岸に対して、死者の世界へと片足をつっこみ始めた自分自身をどこかで意識し始めたのかも知れません。
作者自身もこの句について「或いはこれが僕の『時間の意識』のはじまりか。(…)この時、僕は、自らの青春の終局の意識があつた」と述べており、少なくとも中年期に差し掛かったことへの自覚がこの句の背景にあったことがうかがえます。
8月31日におうし座から数えて「中長期的なビジョン」を意味する11番目のうお座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ひとつ大局的な観点から自身の来し方行く末を眺めてみるといいでしょう。
「退屈の克服」という難事業
かつて澁澤龍彦は『快楽主義の哲学』というエッセイのなかで、次のように書いていました。「死の克服と同じくらいむつかしいのが、退屈の克服だ。(…)平凡な時間の連続のなかに、キラッと光るような瞬間がある。こいつを大事にしなければならない」と。おそらく中年期の自覚というのも、この「退屈の克服」ということが大いに関係しているのではないでしょうか。
澁澤は続けて「革命を起こす程の人間は、まず骨身に徹して退屈を感じる必要がある」とまで言うのですが、その鍵はおそらく自覚的な幸福での待機にあるのかも知れません。いわく、
幸福とは、静かな、あいまいな、薄ぼんやりした状態であって、波風のたたない、よどんだ沼のようなものです。いっぽう、快楽とは、瞬間的にぱっと燃え上がり、おどろくべき熱度に達し、みるみる燃えきってしまう花火のようなものです。
だからこそ、焦って早く花火を打ち上げようとするのではなく、「静かな、あいまいな、薄ぼんやりとした」沼にはまって、あれがしたいこれがしたいと自分を駆り立てる夢を大きく膨らませることが、打ち上げのためのエネルギーとなっていくのだ、と。
その意味で、今週のおうし座もまた、そうした無意識的な“ため”をつくるべく、あえて「静かな、あいまいな、薄ぼんやりした」幸福にとどまっていくべし。
おうし座の今週のキーワード
波風のたたない、よどんだ沼にあえてはまる