おうし座
相反するベクトルをあわせ呑む
無言の圧力を打ち消すために
今週のおうし座は、「<私>への救済」と「<私>からの救済」とのあいだで揺らいでいくような星回り。あるいは、「合わせ含み」としての哲学的実践のごとし。
占いの仕事をしていると、「自分らしい人生」や「私にしかできないこと」を求める声を頻繁に耳にするのですが、こうした「私を生きるとは、私を仕上げて完成させる、ないし実現させることである」という考え方はたぶんにプロテスタント的なものであり、哲学者の山内志朗はそうした考えをどこまでも自己・個体の根底にあるものに帰着し、そうすることで救われようとする「<私>への救済」と呼んでいます(『小さな倫理学入門』)。
そして、こうした「<私>への救済」と対比する形で、自己の滅却や輪廻からの脱出を願う仏教のような、私=我から遠ざかるベクトルにおいて展開される思想を「<私>からの救済」と呼び、この2つをきちんと分けて考えることの重要性を指摘しています。
日本社会は、伝統的に後者の「<私>からの救済」を社会の根底に据えてきたところがありますが、それはともすると「<私>というのは、世界から切除されるべき腫瘍に似ている」という極端な考えと結びつきがちであり、それは冒頭のような声を真っ向から否定する無言の圧力となり、多くの人が感じている“生きづらさ”にも繋がっているのではないでしょうか。その点について、山内は次のようにも書いています。
絶えざる苦しみにありながら、生を続ける者もあれば、一時の苦しみから生を絶つ者もいます。人生とは何なのでしょうか。苦の多寡、喜びの有無は、そこでは肝要ではありません。比較などは成り立たず、死しか心にないでしょう。<私>とは治療されるべき病であると考える者に、「生命・個人の尊厳」や「生命の喜び」や「存在の意味」を説く者は愚かであるように思います。岬の先端に立って、ためらう人間を後ろから突き飛ばす行為に似ていないのでしょうか。哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。
5月6日におうし座から数えて「補完性」を意味する7番目のさそり座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、先の2つのベクトルのどちらか一方に偏るのではなく、いかに自分に欠けがちなもう一方の思想を受け入れていけるかということに、改めて思いを寄せていきたいところです。
「新しいアニミズム」に向かって
公共政策と科学哲学を専門に、新しい社会の在り方について提言し続けている広井良典は、大きなレベルで「今」を特徴づけるのも、やはり2つの相反するベクトルの「せめぎ合い」である述べています(『無と意識の人類史―私たちはどこへ向かうのか』、2021)。
1つは、「地球環境の有限性や持続可能性という価値に目を向けつつ、環境・経済・福祉の調和した社会を志向するという方向」の流れで、広井はこれを「持続可能な福祉社会」や「ポスト資本主義」といった社会像と結びつけています。
対するもう1つは、「様々なレベルでの『限りない拡大・成長』という方向をあくまで追求する方向」であり、そうした流れを代表するものとして「①人工光合成(に示される究極のエネルギー革命)、②地球脱出ないし宇宙進出、③ポスト・ヒューマン(人間そのものの改造ないし進化の次なる段階)」の3つが挙げられ、それは現代版不老不死という夢にそくした具体的テクノロジーと結びついた動きで、経済的なレベルでは「スーパー資本主義」と呼べるような姿と重なるのだといいます。
ただ、広井個人としては後者の流れには、現在の人口過密や格差、環境破壊などの問題を深刻化させるだけなのではないかという点で根本的に懐疑的だとした上で、現在の私たちにとって重要なのは、かつての「心のビッグバン」や「精神革命」に匹敵するような新たな世界観の創出であり、それを人間と人間以外どころか生命と無機物のあいだに絶対的な境界線を引かず、連続的に捉えていく「新しいアニミズム」と表現しています。
それは「“生きた自然”の回復」とも呼びうるものな訳ですが、これは何も広井が言及しているような物理学などのアカデミズムが独占する領域ではなく、虫や花や月をごく身近に感じつつ、「<私>からの救済」的な脱人間中心主義に伝統的に親しんできた日本社会が得意としている領域でもあるのではないでしょうか。
今週のおうし座もまた、自分のごく身近なところから、そうした「“生きた自然”の回復」への流れを、改めて再発見していくことがテーマとなっていくでしょう。
おうし座の今週のキーワード
資本主義の超克