おうし座
宇宙的な初動
「ふれあう」ということ
今週のおうし座は、「ふれる」と「さわる」の違いのごとし。あるいは、鬼太郎の妖怪アンテナばりに、重要な他者との相互的な接触に敏感になっていくような星回り。
この2つの動詞のあいだには、その一見した相似性とは裏腹に、実際には天と地ほどの開きがあって、この2つを一緒くたにしてしまうことで、私たちはしばしば思いがけない現実の落とし穴にハマってしまうものなのかも知れません。例えば、
①私が 机に さわる
②机が 私に さわる
③私が 机に ふれる
④机が 私に ふれる
という4つの文章について考えてみるとき、①と②のあいだには一見すると主体と客体の反転がなんとか成立しているように見えますが、③と④とのあいだの、すなわち「ふれるもの」と「ふれられる」ものとのあいだに成り立っているごく自然な相互性と比較する時、そのあまりの一方通行でぎこちない関わり方が顕著に感じられてくるはず。
もともと、「さわる」は語源的には「妨げる」「阻害する」を意味する「さふ(障ふ)」の受動形であり、だとすれば、阻害するものと阻害されるもののあいだに、相互性の関係が成立することがあり得ないことも容易に納得されてきます。
対して「ふれる」という動詞は、自我の宇宙的目覚めとしての「自覚」の生起と関係しており、そこではつねに宇宙との一種のいきいきとした交流によって突き動かされるような、カタストロフィックな震撼を伴っているのではないでしょうか。
29日におうし座から数えて「集大成」を意味する10番目のみずがめ座の半ばに太陽が達して立春を迎えていく今週のあなたもまた、「ふれあう」という言葉をその最も奥深い意味において体験していくべし。
聖杯感覚
リーアン・アイスラーという社会学者は『聖杯と剣』において、文化を聖杯と剣という対概念で説明し、貨幣経済が生活の隅々まで浸透している現代社会の現状を「剣」だけが肥大して「聖杯」が抑えられてしまっている状態として理解していきます。
伝統的にヨーロッパで剣の原理が強かったのはキリスト教の影響が大きいと思いますが、逆に日本ではもともと聖杯の原理が強かったのではないでしょうか。例えば、戦国時代の日本に宣教師として渡来し活動したイエズス会士ルイス・フロイスは次のようにはっきり述べています。
ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が侵されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。
(中略)ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。
われわれの間では、普通修道女はその修道院から外へ出ない。日本の比丘尼はいつでも遊びに出かけ、時々陣立に行く。(『ヨーロッパ文化と日本文化』)
今週のおうし座もまた、冷たい剣を振り回すのではなく、自分が器になって何か誰かを受け入れ、自分も相手も変容していく感覚を実践していきたいところです。
おうし座の今週のキーワード
自分の中に心情で受け入れたものと運命的に関わろうとしていくこと