おうし座
大局観をつちかう
眼の洗浄
今週のおうし座は、『月天心夜は沈んでゆきにけり』(今井肖子)という句のごとし。あるいは、天上的なまなざしに自分を重ねていこうとするような星回り。
「月天心(つきてんしん)」は、満月が空高くのぼっていくさまを表す秋から冬にかけての季語であり、与謝蕪村の『月天心貧しき町を通りけり』の句で知られています。
そこでは貧しき町を含めた人間の営みがまったくの安らかさのうちに消え去ってしまった静けさに満ちた世界が映し出されていましたが、掲句では、月の光の明るさにおさえつけられ、跪いていくように夜が沈んでいくのだ、という大胆でユニークな見方が打ち出されています。
おそらく作者は、煌々と光り輝きながら、安心して眠る人びとを静かに見つめる良夜のお月様にどこか神々しいものを感じたのかもしれません。そういう物事の眺め方というのは、なかなか自分でしようと思ってできるものではありませんが、だからこそ、そのありがたみがこうして句を読んでいるだけでも、しみじみと感じられてくるのでしょう。ここには余計な小細工だとか自己アピールのようなものは必要ないのです。
その意味で、9月10日におうし座から数えて「中長期的なビジョン」を意味する11番目のうお座で満月を迎えていく今週のあなたにもまた、自身のまなざしから余計なものがすっかり洗い流されて、スーッと天高くのぼっていくような瞬間が訪れていくかも知れません。
雲が「間」を流れゆく
戦国時代にあたる16世紀初頭から江戸時代にかけて、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いたこの屏風絵は、橋や衣服、履き物といったディテールは非常に細かく描かれている一方で、絵画全体を見ると大部分が雲で覆われています。
この不思議な構図の裏にあるのは、ある種の意図的な「ごまかし」です。つまり、これを描いた画家は、京都の何たるかを要素ごとに分解してそれを1つのまとまりとして再構築するのは不可能だと判断し、ビッグピクチャーとしての京都と、いくつかのディテールを描いて、その繋ぎを「間(ま)」としてごまかしたのでしょう。
しかし、これは複雑な相互関係のもとで成り立っている物事をどうやって描き出すかという難題において、「いちいち理屈や根拠がなければ描いてはいけない」というロジックの呪縛から私たちを解放するための知恵でもあって、ビックピクチャーとディティールの往復によって物事を描くとき、そこに必然的に「大局観」と呼ばれるものが浮き上がってくるのです。
同様に、今週のおうし座もまた、見通すべき物事を描き出していくための「雲」の描き方を自分なりに模索してみるといいでしょう。
おうし座の今週のキーワード
単に間を埋めるのではなく