おうし座
巡礼と十字架
※当初の内容に誤りがありましたので、修正を行いました。ご迷惑をおかけし大変申し訳ございません。(2021年1月25日追記)
監督から主役へ
今週のおうし座は、ヴェルナー・ヘルツォークの『氷上旅日記』のごとし。あるいは、肉体を通してせつない祈りを表現していくような星回り。
中世の巡礼者たちは、聖地に向かって数百キロから時に千キロ近い距離を徒歩で歩いたと言います。そしてドイツの映画監督であるヘルツォークが、映画人としての自分を育ててくれた恩人の女性の重病を告げる電話をとった瞬間に決めた、磁石だけを頼りに決行したミュンヘンからパリへ見舞いに行くための徒歩の旅もまた、自分の手には負えない災厄や悲しみを和らげるための行為という意味では似たようなものだったのでしょう。
氷や雨や雪や暴風のなかを、濡れそぼち、骨まで氷りそうになって、憑かれたように彼は歩く。まるで、歩くことによってだけしか、大切な友人は生き延びられないと信じているかのように。旅人が夜を過ごすのは無人の別荘や、農家の干し草小屋だ。
「窓から外を見ると、むかい側の屋根の上にカラスがとまっていた。雨のなか、首をちぢめ、身動きもしないで。しばらくたってからも、あいかわらずじっとしたまま動かず、寒さで凍えながら、静かにカラス的思索にふけっていた。眺めているうちに、不意に兄弟のような感情が湧いてきて、一種の孤独感で胸がいっぱいになった」
歩き始めてから21日目。パリにたどり着いて訪ねた恩人は生きていた。
「ほんの一瞬のあいだ、死ぬほど疲れきったぼくのからだのなかを、あるやさしいものが、通り過ぎていった」
29日におうし座から数えて「求めるべき安心」を意味する4番目のしし座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、普段なら何も感じずに通りすぎてしまうところをあえて巡礼的に旅していくことによって、自分自身の救済を促していくことになるかも知れません。
十字架刑による転換劇
そうそう、ゴルゴダの丘のイエスを筆頭に、なぜ古代世界において十字架刑こそが究極の刑罰とされたのかと言えば、恐らくそれが大地と触れ合って生きるという人間の自然な在り方との「断絶」を意味する究極の異常事態だったからでしょう。つまりそれこそが、人間を最も深い恐怖に陥れうるやり方だったと。
これまでのあなたもまた、無意識のうちに自分の両の足をしっかり下ろし踏みしめることで力を得ていた大地(生の基盤)があったのではないでしょうか。あるいは、あなたに生きるための糧や安心感を与えてくれる存在や、やりがいを得られたモンスターや敵役のごとき存在が周囲にいたのではないでしょうか。
イエスはそうした存在の一切を剥奪され、一度は死の闇に落ちていくことで、後に今までに感じたことのなかったような神性を宿して復活していったのでした。自信と生命力を全身にみなぎらせることだけが、影響力を高める唯一の方法ではないです。
今週のおうし座は、そうした意味での「別のやり方」を模索してみるにはちょうどいいタイミングと言えるでしょう。
今週のキーワード
カラス的思索