おうし座
まぼろしに消える道
生命と飛躍の瞬間
今週のおうし座は、ロダンの「カテドラル」という彫刻作品のごとし。あるいは、さまざまな記号のはりついた人間である前に一個の生命体であることに基づいていこうとするような星回り。
ロダンの作品の中では小品ながら「カテドラル(大聖堂)」と名付けられた作品があります。厚みや大きさ、手首の細さが異なる二つの手が今にも触れ合おうとしているのでしょうか。それとも、離れる瞬間なのでしょうか。いずれにせよ、そこには不思議な宇宙性と宗教性が横溢しています。
どうしてこのような作品がつくられ、祈りの場である大聖堂の名がついたのか。周囲の人々の熱心な聞き取りから生まれた『ロダンの言葉抄』の中に、次のような箇所がありました。
(宗教とは)無限界、永遠界に向かっての、きわまりない智恵と愛とに向かっての、われわれの意識の飛躍です。多分夢幻に等しい頼みごとでしょう。(中略)線と色調とはわれわれにとって隠れた実在の表象です。表面を突き通して、われわれの眼は精神まで潜りこむのです。
そうして、彼にとっての宗教体験と制作哲学とが重なり合い、次のように結ばれます。「よき彫刻家が人間の彫刻をつくるとき、彼が再現するのは筋肉ばかりではありません。それは筋肉を活動させる生命です」と。
14日におうし座から数えて「意識の飛躍」を意味する9番目のやぎ座にある木星・冥王星に改めて焦点があたっていく今週のあなたもまた、自分が人生に対して何を祈り、それをどのような形で具現化しようとしているのか、改めておのれに問うていくことになりそうです。
酔芙蓉のごとく
日本の中世では「補陀落渡海」といって、南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出る自発的な捨身を行って民衆を先導する捨身行がおこなわれていました。
ここで言う「補陀落(ふだらく)」とは、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の霊場のことで、補陀落浄土とも呼ばれるもの。
まさに浄土の「まぼろし」に見せられた宗教的伝統のうちの一つであった訳ですが、この「補陀落渡海」について詠んだ句に「補陀落といふまぼろしに酔芙蓉」(角川春樹)というものがあります。
この句では、観音菩薩が「酔芙蓉」に重ねられている訳です。酔芙蓉は、夏から秋にかけて薄紅色の美しい五弁の花を咲かせるのですが、朝に花が開くと翌朝にはしぼんでしまうんですね。
さながら、清水の舞台からポーンと飛び降りるみたいに咲いては、「まぼろし」のなかに消えていく。それはまぼろしに「酔う」ということでもあって、そのなかに何かまったく新しい自分のあり方やそれを可能にするような道というのを見つけていく訳です。
ロダンが『カテドラル』を造ったのも、おそらくそんな心持ちだったのではないでしょうか。今週のおうし座もそれに続いていくべし。
今週のキーワード
補陀落渡海