おうし座
綺麗事ぶってんじゃねえ
おーい、安吾。
今週のおうし座は、坂口安吾の『堕落論』のごとし。あるいは、「まともさ」や「綺麗事」への違和感で、いつわりの安寧を蹴破っていくような星回り。
『堕落論』が発表されたのは1946年4月。空襲でほとんど更地となっていた東京において、坂口安吾は戦前と戦後の日本社会を比べて次のように述べました。
「半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日にか御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すにも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。」
戦後という言葉さえもかすむほど戦争を意識することもなくなった平和ボケした今の私たちは、ともすると理想論を語り、綺麗事を並べがちですが、安吾はそういう上っ面だけの生き方では決して認めてくれないでしょう。
堕ち切ることができずにいるから、いつまでも幻想(他者の視線)を追いかけるのだ、と。各人が自分自身の正しく堕ちる道を見つけ、自分なりの武士道、自分だけの天皇を見つけろと。
そうして、生きて、堕ちて、戦って、はじめて安吾は「確かに生きた」と言って認めてくれるはず。
今週のあなたもまた、自分なりの堕落の道をゆくことが改めてテーマをとなっていくでしょう。
高潔と堕落と
「堕落」の反対語が「高潔」であることは、言葉の上では分かっていると思いますが、安吾が
「即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている」
と書く時、両者は鋭い緊張関係を持ちつつも驚くほどに似通っていることが分かるかと思います。
それに、「高潔になろう」と自分で言うのは決まりが悪い人も多いでしょうけれど、「驚くべき平凡さや平凡の当然さ」としての堕落をわが身にきちんと引き受けていこうということなら、勘を働く人も出てくるはず。
他ならぬ安吾がどんなに酷いことを書いても文章がかっこいいのは、その眼光鋭い睨みが、彼自身の孤独に裏打ちされているからでしょう。
彼もまた自分なりの堕落の道をしっかりと持っていたのだと思います。
今週のキーワード
すぐに墜ちてしまう人間の性を、じゃあどうするかって問題。