おうし座
違和感を噛みしめる
吃りと切なさ
今週のおうし座は、もどかしき吃音者のごとし。あるいは、吃るからこそ、自分の言葉の言葉を、自分の口の中でかみしめていくことができるような星回り。
「吃る」を辞書で引いてみると、「言葉をなめらかに言うことができず、つかえて同じ音を何度も繰り返したりすること」とあります。
自分のものでありながら、自分のものでない体をたえず携えて生きていくということは、考えてみれば大変なことだ。時にそれは、悲しくてやり切なくてやりきれないものでもあるはずだ。
気の利いた言い回しなどでは、とても言い表すことができない生きるということの生々しい不自然さやぎこちなさ、わざとらしさやちぐはぐさ。
それらを前にした時のどうしようもない割り切れなさは、実際に当事者として体験してみなければなかなか分かるものではないだろう。
今週は、何気ない動作や「しゃべる」という行為の中で生じてくるエラーやギャップ、「伝わらなさ」を感じなおしていくことで、改めて生きるということのままならなさを掬いあげていくことができるでしょう。
うめきと戦慄
例えば、裸の王様を見つめ本当のことを口にしようとした子供と比べて、あなたは自分のことを、おろかな知恵者か、かしこい愚者か、どちらに近いと思っていますか?
「――子供の頃、独りで広場に遊んでいるときなどに、俺は不意と怯えた。森の境から……微かな地響きが起こってくる。或いは、不意に周囲から湧き起ってくる。それは、駆りたてるような気配なんだ。泣き喚きながら駆けだした俺は、しかし、なだめすかす母や家族の者に何事をも説明し得なかった。あっは、幼年期の俺は、如何ばかりか母を当惑させたことだろう!泣き喚いて母の膝に駄々をこねつづけたそのときの印象は、恐らく俺の生涯から拭い去られはしないんだ。」(埴谷雄高、『死霊』)
こうした、私が私であることへの「怯え」、あるいは自分が人間であることへの不快には、身に覚えがある人もいるでしょう。
少なくとも、裸の王様を前にした子供はその怯えに突き動かされるように思わず口を動かし、そして居ても立っても居られず走り去ったのに違いありません。
その「戦慄」や、「うめき」こそが、どこで覚えたのでもない、ほんとうの現実。
そういうことが、今週はすこし分かるのではないかと思います。
今週のキーワード
自分のものでありながら自分のものでないという感覚