さそり座
死に立ち返る
理想の死
どの星座にも、各々その本分を呼び覚ますマントラのようなものが仮にあるとすれば、さそり座の場合は「私のいのちは誰のためのものか?」という文言になるでしょうか。
人は誰でも死にたくないですから、もし生きるか死ぬかの二者択一の場面に直面したとき、ほとんどがとっさに死なない方を選んで、後から理由をつけようとします。
ところが、さそり座だけはとっさに死ぬ方を選んでしまうところがあるように思います。
さそり座にとってみれば、どちらにしようと迷っていること自体がそもそもありえない事態なのであって、その上さらに適当に選択した理由が自分の本心に反するようなことがあれば、この世のすべてを破壊し尽くしても足りない気分になるのかも知れません。
そういうことを理屈ではなく、本能的に察してしまうのがさそり座のさそり座たる所以なのですが、こうしたさそり座の本分は物凄いパワーや化学反応を生み出す原動力となる一方で、とても危なっかしいものだとも言えます。
一言でいうと、死にたがりなんです。
今週のさそり座は、どこか鏡の前で自分の「理想の死に方」を思い描く武士のようであり、犬死とならないためには、自分の命をどのように使っていけばいいのかと沈思黙考していくような時間が大切になってくるでしょう。
セネカの問いかけ
暴君ネロの家庭教師をつとめ、のちに謀反に加担したかどでネロに自殺を命じられたローマの哲人セネカには、『人生の短さについて』という著書があります。
実際には70歳を超えるまで長生きしたセネカですが、この本の中で繰り返し述べているのは、人生はみなが思っている以上に短くはないし、時間の使い方次第で相当のことができるが、しかし自分の時間を生きていない者はその限りではない、ということ。
例えば19節の終わりを抜粋してみましょう。
「何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩きまわり、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分だけのものであるかを考えてみればよいのである。」
自分の教え子に自害を迫られたセネカは、最後に何を思ったのでしょうか。
そういう意味では、彼の人生そのものがひとつの問いかけのように思えます。
今週のキーワード
自分の生は誰のものか