さそり座
にぶく光る
変異の先覚者
今週のさそり座は、「種の主体性」への転換のごとし。あるいは、「個体はすなわち種であり種はすなわち個体である」という思想に傾斜していくような星回り。
生態学者・今西錦司は『生物の世界』の中で、ダーウィンの自然淘汰の考えを全面的に否定して「種は変わるべくして変わる」と主張し、「種自身が変わっていく場合には、早く変異をとげた個体はいわば先覚者であり、要するに早熟であったというだけで、遅かれ早かれ他の個体も変異するのである」と述べました。
こう言われると、どうしてもイーロン・マスクやスティーブ・ジョブスのような普通人の枠から外れた革命児の顔を思い浮かべてしまいますが、今西は続けて「形態的・機能的ないしは体制的・行動的に同じようにつくられた同種の個体は、変わらねばならないときがきたら、また同じように変わるのでなければならない」とも述べ、それゆえにこそ「種の起源は種自身になければならない」と結論づけました。
つまり、一部の天才や革命児によるリーダーシップばかりを待望するばかりでなく、一般庶民の方こそが「その時がきたら」率先して変容していかねばならないのだと言っている訳です。そんな無茶なと思うかもしれませんが、太平洋戦争の前後のように、流れる空気によって支配されるところのある日本人は、案外そうした「変容」を特異としているのではないでしょうか。
10月24日にさそり座から数えて「自己の社会化」を意味する10番目の星座であるしし座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、今まさにそうした「変容」のフェーズに入りつつあるはずです。
抵抗する網目としての主体
哲学者のキルケゴールは「自己とは、関係が、関係において、関係に関係することである」というテーゼを打ち出しましたが、宮沢賢治もまたよく知られた詩の一節である「わたくしといふ現象は、……因果交流電燈の、ひとつの青い照明です」において、因果という「関係」の総体から「私」が現れてくるという似たようなビジョンを描いてみせました。
賢治のいう「因果」は、どこか今日的な電脳メディアや仮想現実空間のいたるところに張り巡らされた電気回路を想起させますが、電燈としての「私」はその電気回路のうちの、フィラメントなどによって「抵抗」の高まった場所であるということになります。
「私」はそうしたメディアの網の目のなかで、情報が「私」を素っ気なく通りすぎていくのを阻止しようとして抵抗を与え、それによって「私」は熱と光を発し、そういうものとしてのみ自分自身を認識し、また認知されていく訳です。
今週のさそり座もまた、今自分が置かれている「因果」な環境に、できる限りの「抵抗」を試みることで、広大で複雑な「関係」の中でおのれやその変化を感じとっていくことができるでしょう。
さそり座の今週のキーワード
抵抗とそれに伴う発光としての存在証明