さそり座
表と裏がひっくりかえる
2人の子ども
今週のさそり座は、『ふるさとに時間の止めている野菊』(津沢マサ子)という句のごとし。あるいは、世俗的かつ近代的な自分がスーッと後退していくような星回り。
「ふるさとに」という言葉から、おそらく普段は別の場所で暮らしていて、久しぶりに地元へ帰ってきたのだと思います。そして、そこでちょっとした違和感を覚えた。それが野菊に象徴されているのでしょう。
「時間をとめている野菊」は、若かりし頃の思い出の場所とまさしく同じ場所で、思い出のままに咲いているのに対し、作者のほうはすっかり歳を取って変わってしまったし、たえず動き続ける慌ただしい毎日を送っている。そのあまりの対照的な食い違いぶりに、思わず口先や筆先から言葉がついて出て、それが句になっていったのだとも言えます。
逆に言えば、私たちの中にはもともと2人の子どもが住んでいて、1人は表の自分となって、20とか40とか歳相応に成長し、変化していくが、裏の自分のでもあるもう1人の子どもはいつまでも歳をとらないで子どものままでいて、それがここでは「ふるさとの野菊」としてふっと現れてきたのかも知れません。
裏の自分とは過去のものの残滓でもあり、いまだ訪れていない未来のものでもあり、いつだって今も普通にここにあるような、いわば無時間を漂い続けている自分であって、人間が生まれる前から存在しているいつの時代にもあるような「永遠の子ども」とも言えるものでさえあるように思います。
その意味で、10月3日にさそり座から数えて「潜在的な自分」を意味する12番目のてんびん座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、そんな裏の自分と表の自分とがどこかで逆転していくような瞬間がふいに訪れてくるはず。
永遠の原始人
かつて井筒俊彦は『ロシア的人間』の中で、広大な北の大地に棲む人々をそう呼びました。
行けども行けども際涯を見ぬ南スラヴの草原にウラルおろしが吹きすさんでいるように、ロシア人の魂の中には常に原初の情熱の嵐が吹きすさぶ。大自然のエレメンタールな働きが矛盾に満ちているように、ロシア人の胸には、互いに矛盾する無数の極限的思想や、無数の限界的感情が渦巻いている。知性を誇りとする近代の西欧的文化人はその前に立って茫然自失してしまう。
便利な都会の生活に慣れ親しみ、西欧以上に合理的知性を正しいものと信じてきた日本人にとっては、おそらくこうしたロシア的ラディカリズムの嵐はより不気味で得体の知れない怪物のように映るかも知れません。
しかし、たかだか200年余りのうちに形成された常識や論理の枠内に自分自身や生そのものを抑えこむことは本来不可能なのです。
今週のさそり座もまた、まるで夢が現実を飲みこみ、あるいは原始性が近代性を呑み込んでしまうかのような転倒や逆流現象がどこかしらで起きてくるかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
とことん呆然自失する