さそり座
「あの」、「え」
そこには「今」がない
今週のさそり座は、「最上の話しことば」を求めて。あるいは、「わたし」を超えた何かに突き動かされるのでなければ何か物足りないという感覚を大事にしていくような星回り。
誰かに話しかけるということ一つとってみても、声が自分のからだから離れて、相手のからだに伝わってはじめて、「ことば」は成立していく訳ですが、演出家の竹内敏晴は長年の演劇指導経験から次のように指摘しています。
自分がほんとに言いたいことがはっきりし、ことばとして充実して組み立てられ、さて相手をまっすぐ見、まちがいなく声で相手のからだにふれられた、となる(…)盟友の語るセリフなども多くこれに類するだろう。ではこれが最上の話しことばか、となると、私にはどうもなにか一つ物足りない感じが残る。(…)単純に言い切ってしまえば、そこには、「今」がない、のだ。(『ことばとからだの戦後史』)
ここで竹内が言っている「今」とは、生きて働いている「からだ」のことであり、この場合の「からだ」とは古代ギリシャの哲学者たちの「魂」であり、深層心理学者のユングにおける「アニマ(無意識的なイメージ像)」にあたり、つまり「からだが働いている」とは通常の意味での「わたし」を超えた運命的な「なにか」に突き動かされている状態を指しているのではないでしょうか。
つまり、「話しかける」という日常的な行為においても、「私が真に私であるとき、私はすでに私ではない」のであり、「ただ生きて働いているからだがあるだけ」となる場合もあるというのです。竹内によれば、そういう「からだ」とはすなわち「風の如きもの」であり「あるともないとも言えず、突如として」「巻き起こる」ものなのだとも述べています。
6月29日にさそり座から数えて「身体的調整」を意味する6番目のおひつじ座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、「話しかける」ことをめぐる幾つかのレベルを意識しつつ、なまなましく「からだ」が働く感覚に近づいていくべし。
街角に可能世界の響きあり
例えば舞台演劇やミニシアター系映画の冒頭部などで、「あの」という呼びかけとそれに対する「え」という反応から始まるシーンを時たま見かけます。
「え」という反応は、すぐに「えき?」という単語にスライドし、「分かりますか?」という交流に変わる。そうして両者の言葉がまじりあいつつ幾度かやり取りをくりかえし、「あの駅からこの道をまっすぐ行って、突き当りを右に曲がると」という道案内までたどり着くと、当初の不安げな危うい雰囲気はサッと消えてしまう。またもとの閉じた日常へと戻ってしまう。その、少しホッとするような、どこか残念なような、切ない気持ち。
あれは何だろうか。何かはっきりとした課題やテーマがある訳ではない。ただそこに感じられるのは、かすかな喪失の手触りと、あり得たかもしれない、しかし、実際にはあり得なかった可能性へのうっすらとした悲しみだろう。
誰かと交わす言葉の反復と変奏には、「あの」「え」という単純な発語から取り出される無限の可能性と、閉じた日常が開かれていく可能世界の響きがつねに孕まれているのです。
今週のさそり座もまた、そうした「からだ」の感覚にもとづいた心当たりをきっかけに、少しだけ自分の日常を開いていくことができるはず。
さそり座の今週のキーワード
差異と反復