さそり座
別のものへ
アルベルチーヌ体験
今週のさそり座は、集合体としての“あなた”のごとし。あるいは、金太郎飴のような気味の悪い「オンリーワン」信仰を成仏させていこうとするような星回り。
プルーストの『失われた時を求めて』の主人公=語り手が、すでに関係が泥沼化していたアルベルチーヌという恋人の事故死の知らせを受け、その後どのような心境の変化を辿ったかについて、小川公代は「可塑的な時間感覚と愛」というエッセイで次のように書いています。
彼の心を救ったのは、アルベルチーヌがじつは「唯一の存在」ではなく、「多くの部分、数多くのアルベルチーヌに分割されていた」という気づきであった。つまり、彼女という一個の人間は、「数多くの人間を含んでい」たことになる。
アルベルチーヌは生前からとある同性愛者と親しい関係にあり、主人公はその疑惑で苦しんでいたのですが、死後に彼の元へ届いた手紙や打ち明け話を見聞きし、疑惑の実際を想像していくうちに「突如として異性愛的な価値から解放され」、恋人を彼女と親しい関係にあった娘たちと共に一つの「集合体として見なす想念」が広がっていったのだそうです。
語り手がさほど苦しまなかったのは、おそらく「べつの知覚を持つがゆえにべつの欲望をいだ」いていたかつての彼が今では別のものを欲望するようになっているからだ。すなわち、同性愛を受け入れられなかった語り手は、アルベルチーヌの快楽のイメージを介して変化していったのだ。
5月26日にさそり座から数えて「息継ぎ」を意味する8番目のふたご座に拡大と発展の木星が約12年ぶりに回帰するところから始まった今週のあなたも、語り手=主人公が引きずりこまれた、破綻と転調のはざまに立たされていくことになるかも知れません。
ほかの誰かの記憶の追体験
岸本佐知子のエッセイ集『死ぬまでに行きたい海』には、過去をさかのぼって古くからの思い出や思い入れのある場所を訪れては、記憶していた何かがすでに失われてしまったという体験が繰り返されていきます。
例えば、笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』を読んで以来、想像し続けてきたJR鶴見線の海の見える駅である「海芝浦駅」を実際に訪れた際の顛末について、彼女は次のように書いてます。
かくして二十年来の夢はかなった。海芝浦は予想通りに面白いところだった。私は満ち足りた。/だがしばらくするうちに、妙なことに気がついた。もう行ったはずの海芝浦に、なぜか私はまだ行けていないのだった。二十年来の空想の海芝浦はあいかわらず私の脳内にあって、膨らみつづけていた。
こうした体験はそう珍しいことではありません。人は誰しもほかの誰かの記憶をコピーして、いつの間にか自分の記憶と混同してしまっていますが、実際にそのオリジナルを自分で体験することを通して、「記憶」にあるものの喪失を目の当たりにし、失われたものに想いを馳せることで、これまでとは別の、しかし生きた実感を刻んでいくことができるのです。
今週のさそり座もまた、そんな自分の中にあった誰か何かの喪失やそれに伴う変容を我が事として体験していくことができるかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
記憶の追体験