さそり座
何を借りて、今ここに在るか
奇跡の再確認
今週のさそり座は、死者のまなざしを借りる臨生体験のごとし。あるいは、「<在る>ことのほうが土台、不思議」と改めてびっくりしていくような星回り。
そもそも、何かが「在る」ということは、「非在でかまわなかったし、いずれ非在化するにも関わらず、存在している」ということに他ならない訳ですが、哲学者の古東哲明は、そのことについて次のようにも言い換えています。
非在の闇を背景にしてみれば、むしろ非在であることのほうがオリジナル(=論理的に無理がない)。存在には必然的な根拠も理由も起源も目的もないのだから。だからむしろ理論上は、<在る>ことのほうが土台、不思議。無くてもともとだし、無いのが理屈のうえでは<自然>である。だがしかし、理屈でどれほどそうだとしても、現に事実として、在るのが不思議な<存在>が、刻一刻の今ここに実っている(『他界からのまなざし 臨生の思想』)
非在とは、分かりやすく言えば、この世に生まれていない状況であり、死者や死後の世界に一致した状態です。古東はそうしたごく自然な状態としての死を、死者のまなざしをとりこむことで引き起こす実存の在り様のことを「臨生体験」と呼んでいます。
5月15日にさそり座から数えて「父の目」を意味する10番目のしし座で上弦の月を迎える今週のあなたもまた、自分の死を先取りして、生をまっとうするためには何が足りないのか、どんなことを為していかなければならないのか、見通してみるといいでしょう。
ルイ・ボナパルトの場合
かつてカール・マルクスは、1799年にナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)が政府を倒した軍事クーデター「ブリュメール18日のクーデター」と、甥のルイ・ボナパルトが1851年に議会に対するクーデターを起こし、大統領権限を大幅に強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立し、翌年には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し「ナポレオン3世」と名乗るようになったことを対比しながら『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を書き上げ、そこで「革命」のもつ謎について次のように説明しました。
人間は自分自身の歴史を作るが、自分が選んだ条件の下でそれを作るわけではない。彼(※ルイ・ボナパルトのこと)はそれを手近にある、所与の、過去から与えられた条件の下で作るのである。すべての死者たちの伝統は生者の頭上の悪夢のようにのしかかる。そして、ちょうど彼が自分自身と物事を改革し、それまで存在しなかったものを創造することに没頭している、まさしく革命的な危機の時代に、彼は不安げに過去の亡霊を呼び出しては、その名前や戦闘のスローガンをそこから借り受け、昔ながらの服装をまとい昔の言葉を使いながら、その新たな世界史の場面を演じているのである。
注意深く読めば、読者はここでマルクスが、伯父にならってナポレオン3世を名乗ったルイ・ボナパルトを単なるバカと冷笑的に論じている訳ではなく、ある種の愛情さえ込めて取り扱っていることに気付くのではないでしょうか。
今週のさそり座もまた、ふだん自分が一体何を演じているのかということを、改めて思い知っていくことになるかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
現実をコントロールしないこと