さそり座
生きていれば
老年の孤独
今週のさそり座は、『湯気立てて命さみしくまどろみぬ』(清原拐童)という句のごとし。あるいは、いつの間にか背中に負ってきた“さみしさ”をたな卸ししていくような星回り。
ここには若い人が好むような何かしら詩的な背景をもつ思索的な孤独とは異なる、老年のさみしいつぶやきに等しい孤独感があります。
作者は流転多き人生だったようで、俳句の指導者として多くの人に慕われた人物でありながら、同時にこうした枯れた弱弱しい孤独をずっと身にまとい続けた人でもあったのかも知れません。
掲句は、おそらく部屋の乾燥をふせぐため、火鉢にヤカンでもかけて蒸気を発生させている場面なのでしょう。湿度と室温の上昇とともに、ほんの一時ではありますが、運命的な不幸を負ってすっかり潤いを失っていたこころに、あたたかな感触や甘やかな喜びがよみがえってくる。
はたして自分がいま見ているものが夢か現(うつつ)か。その境界線があいまいになった先で、ようやく枯れた孤独の影はうすまっていく訳ですが、それが束の間のまぼろしであることがよく分かっているがゆえの「さみしさ」はきっとひとしおでしょう。
11月8日に自分自身の星座であるさそり座の後半に太陽が入って「立冬」を迎えていく今週のあなたもまた、できるだけ感傷や誤魔化しを排して自身の命のありようを見つめなおしていくべし。
小沼丹の『十三日の金曜日』
文鳥の記憶をめぐるこの短い小説では、主人公は或る日戦死したはずの友人を見かけ声をかけたら手を振ってくれたものの、人に確かめたらもう死んだと言われたことを思い出す。不思議なものだと出した足が愛鳥を死なせる。午後から学校へ出勤し、電車に揺られていれば風呂敷包みを頭に落とされる。今日は十三日の金曜日だと話す声がする。着けば、上着に財布を入れ忘れた妻への悪口が外へ漏れて人を驚かせ、そこで話は唐突に終わる。
振り返ってみれば、文鳥という言葉一つでて来ない。それに、いかにも小説のためと言わんばかりの、取って付けたような移動があるだけの小説で、ここでは何かが破れている。破れているのは現在や過去といった時制だろうか、それとも自他の境界線だろうか、あるいは虚構と現実の区別だろうか。
生きていれば、そういうこともある。今週のさそり座もまた、不意に生に差し込まれてくるものを流すのではなく、しかと受け止めるくらいの器の大きさを見せていきたいところです。
さそり座の今週のキーワード
枯れた弱弱しい孤独