さそり座
沈思黙考
秀吉に対する利休の立ち位置
今週のさそり座は、黙って何かを示した利休のごとし。あるいは、説明したり説得しようとする姿勢から真逆のベクトルへと突き進んでいこうとするような星回り。
作家の赤瀬川原平は『千利休 無言の前衛』において、禅の精神を取りいれた「わび茶」によって茶の湯の革命児となった千利休(せんのりきゅう)の見ていた世界をめぐって、次のような言い方で評しています。
新しい価値観の生まれてくるような世界にあっては、言葉というものの乱暴さばかりが目につくのである。どのように丁寧な言葉を心がけても、言葉の存在自体が乱暴になっていく。何事かを言葉に託すごとに、その言葉に裏切られる。そして沈黙が生れる。
しかし利休は、その高い美意識ゆえに、時の権力者であった秀吉の怒りを買い、自害を命じられて生涯を終えていますが、その点について赤瀬川はこう続けています。
だから利休は言葉を使わずに、何事かを黙って示す、ということになる。示すというより、黙って置くのだろう。その置かれたものに人が何事か気付いてくれればいいし、気付いてくれなければ仕方がない。そのまま黙っている。というふうであったろうと想像している。何事かを説明し、説得する、というようなことはいちばん遠い人だと思うのである。いっぽう秀吉というのは、何事かを示しながらどんどんしゃべる、そんな人ではなかったのか。
同様に、11月5日にさそり座から数えて「公的姿勢」を意味する10番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、いかに「黙っておかれた何事か」そのものになっていけるかということがテーマになっていきそうです。
「我抵抗するゆえに我らあり」
カミュは太平洋戦争の最中である1942年に出版された『シーシュポスの神話』において、神々を2度までも欺いた罰として、一個の岩と一つの坂と一つの無意味な作業しか持たず、それらを延々と繰り返さざるを得ないというシーシュポスへ与えられた状況に、人類全体の運命を見出しました。
これは不当に貶められ、悲惨な状況にいる人々による、みずからの運命を受容するための戦いとも言えますが、戦後カミュは『反抗的人間』において、他人のために人生を捧げ、他人の悲惨さをなんとかしようとして神々に逆らうプロメテウスを主人公として、人間を「現状を否定する唯一の生物」として描き出してみせました。
こうしてカミュは、シーシュポスとプロメテウスという二つの人間像を併置させつつ、「一方に美があり、また一方に貶められた人たちがいる。どんなに困難だろうとわたしは決して不実でありたくはない。後者にも、前者にも。」と述べるにいたりました。
つまり、カミュは最終的に先の二つの像の中間点にこそ、人間の運命と将来は託しつつ、受容と抵抗を二つながら持ち続けることができるかがその試金石になると考えたのです。
今週のさそり座もまた、そうしたある種の矛盾を自身のうちに抱えつつ、どこまでそれを行動へと反映させられるかが問われていくでしょう。
さそり座の今週のキーワード
新たな価値観を示すために