さそり座
世間体など知らぬ
猥褻な裸形の塊である
今週のさそり座は、サルトルの『嘔吐』の一節のごとし。あるいは、常識的な理解の範疇を超えた生々しさが開示されてくるような星回り。
私たちは普段、何か物がそこに“存在している”ということを本当の意味では感じていません。物はまるで舞台装置のように、私たちを取り囲み、手にとっても予定調和な抵抗があるばかりで、なんでもないような道具の役割をこなしているのです。
とはいえ、そうして大人しく人間側に都合を合わせてばかりいる訳でもないことは、例えばサルトルの『嘔吐』に出てくる例のマロニエの根っこの記述などにあたれば分かるはず。
それから不意に、存在がそこにあった、それは火を見るよりも明らかだった。存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物の生地そのもので、この根は存在の中で捏ねられ形成されたのだった。と言うよりもむしろ、根や公園の鉄柵やベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消え去ってしまった。物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った―むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である。
この「怪物じみた」という形容は言い得て妙でしょう。それはつまり、決して前代未聞なのではなく、むしろうすうすその姿かたちに見覚えがあるものが、日常のなれ合いに明らかにそぐわない形で不意に目の前で開帳される際にそう感じるからです。
その意味で、25日に自分自身の星座であるさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、安易な先入観によって覆い隠されている「存在」のとばりの向こう側を垣間見ていくことになるかも知れません。
ほのぼの真理
安達哲の漫画『バカ姉妹』はタイトル通り、この漫画は巣鴨という街で両親と離れて2人だけで暮らす姉のおねいと弟の純一郎という双子の幼児と、それを取り巻く住民たちのお話。彼ら姉妹は確かにバカというか天然なのですが、さりとてただの天然という訳でもなく、はなから悟りを得ていて、しかもそのことをすっかり忘れ去っているような存在として描かれています。
彼らを幼児と思って近づいてくる欲望まみれの大人たちは、ふだん社会で使っている方便やおためごかし、セコさ、忖度をそのまま彼らに繰り出してくるのですが、2人はそうした発言や行動の真意をいともやすやすと見抜いてしまう。しかも、声を荒げてそれを指摘したり、歯向かったりするのでなく、ただじっと見ているのだから、余計に恐ろしい。
例えば、双子を可愛がる母の友人・志津香さんが2人を叱ろうと、育児書で得た「まず褒めてから叱る」を忠実に実行してみせた時も、2人はピタリと動きを止めて志津香さんを見つめ、心のなかで「あやつっている……」とつぶやいてみせるのですが、こういう真似は常人にはなかなかできません。
それはなぜか。どうしたって関わる相手に期待しすぎてしまうか、少しも気を許してはならないと思い込むかのどちらかに偏りすぎてしまうから。姉妹のように、その中間にふんわりと留まっていられないのです。
今週のさそり座もまた、自分の何を律し、どこに風を通していくべきか、姉妹を見習いつつよく振り返っていくといいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
中庸でいること