さそり座
包摂のための超越
思いが収斂していくその先へ
今週のさそり座は、『新緑の残響は柩を満たす』(対馬康子)という句のごとし。あるいは、より大いなるものへと包み込まれていこうとするような星回り。
万物が明るく輝く「新緑」の季節に亡くなった人を捉えた一句。葬儀の日、花に縁どられた「柩(ひつぎ)」の中に納める故人ゆかりの品などは、これまでにも数多く詠まれてきましたが、この「柩」を満たしているのは、さやさやと風に鳴る葉擦れの「残響」という目に見えないもの。
しかも、葉擦れの音そのものでもなく、あくまでその「残響」であるというところに、作者の深い悲しみが見て取れます。忙しく身体は動かしていたとしても、どうしたって思いは沈み、外からの声や刺激も水面を隔てたかのように、何らかの屈折や透過を経た「残響」として聞こえてくるし、死者にとってはこの世を去ってゆく名残の思いが断ちがたく生じてしまう。
掲句はそうした両者の万感の思いが、「柩」を反響版にして静かに、荘厳に鳴り響いている様子を描いている訳ですが、それは同時に、葬儀という人の世の営みが、自然に包まれ迎えられていく、ありうべきプロセスを示唆しているのだとも言えるかもしれません。
同様に、16日に自分自身の星座であるさそり座で満月を迎えていくあなたもまた、自分の身を反響版にして高まりゆく思いのボルテージを、余計な理屈で捻じ曲げることなく、できる限りそのまま受け入れていきたいところです。
諦めと治癒
今はもう使われていない表現ですが『分裂病者と生きる』(1993年)という本の中で編者の加藤清がまだ若い精神科医だった頃のエピソードとして次のような話が語られています。
いわく、壁面に頭を打ちつけて自傷行為をやめない患者を前にして、誰も何もなす術がなくなり、無力感にかられてみな呆然として立ち尽くしていたと。そのとき、加藤は突然、病室の隅にあったゴミ箱の中に入って土下座した。すると、それまで誰が何を言おうとしようと自傷行為をやめなかった患者が動きを止めて、加藤に注意を向けた。そして、その瞬間から治療行為が進み始めていったというのです。
加藤はなぜ、わざわざゴミ箱に入って土下座したのか。あえて言いきるならば、ここにはあらゆるレベルの治療や治癒という現象の秘密が現れているように思いますし、それは今のさそり座にとっても重要な指針になってくるでしょう。
加藤のしたことは、患者や同僚に対するある種の「超越」行為と言えますが、同時にそこには「自分ではどうにもならない」「救えない」といった患者の苦悩に対する諦めの深さと祈りの切実さがあるがゆえに、権力構造を伴なう操作や圧倒、マウンティングなどとは一線を画すのです。これもまた、大いなる包み込みのひとつの形と言えるのではないでしょうか。
さそり座の今週のキーワード
we(私たち)がthey(彼ら)になる時