さそり座
もっと哀しくなろうよ
風流と人間との距離
今週のさそり座は、「死ねとすぐいふ子に秋の金魚かな」(高柳克弘)という句のごとし。あるいは、従うべきプログラムより拠って立つべきパースペクティヴを鮮明にしていこうとするような星回り。
風流などというと、秋の夜長に聴く虫の音や、風に流れるススキなどが思い浮かびますが、それはたえず移ろいゆく季節のなかで、折々においてその変化を感じさせる事物に心を寄せることで実感される、流動的な自然との一体感を端的に表わした表現なのだと言えます。
その意味で、夏祭りなどで家で飼い始めた金魚も、涼しい秋になるとその存在を忘れがちになり、どこか色褪せたように感じられてくるさまを表わした「秋の金魚」という季語は、そこはかとなく身にせまる悲しい情感を示したきわめて人間的な風物であり、秋という季節は良くも悪くもそうしたものが、スーッと見えてしまう季節なのでしょう。
「死ねとすぐいふ子」というひどく困惑させる存在に対しても、そういう季節だからこそ単に不快感や反発を覚えて終わるのではなく、その奥にそうならざるを得なかった周辺の事情や、なんとも言えない人間の哀しさが見えてきてしまったのかも知れません。
少なくとも、「死ねとすぐいふ子」にとって先に述べたような流動的な自然との一体感としての「風流」は縁遠いものであり、それはどこかで宇宙における自分の居場所を見失ってしまった現代人の象徴のようにも感じられます。
13日にさそり座から数えて「生き抜く術」を意味する3番目のやぎ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「哀しさ」に基づいて自身や社会を広く見通していきたいところです。
漂白する一艘の舟となる
私たちが時おり訳もなく哀しくなるのは、文明社会ではあらゆる物事が予定調和的にコンクリートで固められ、現実のたえず揺れ動いて捉えどころのない側面に蓋がされていくことに、一個の生命としてどうしようもない違和感を覚えてしまうからなのでしょう。
例えば、俳句の五七五のリズムは元をたどれば海洋民におけるオールを漕ぐリズムの記憶を伝えるものであるという説がありますが、それは自分たちが拠って立つのはつねに安定している大地などではなく、いつ何時揺らぐか分からない船の上であり、その下には人間にはどうしようもない海という大自然が広がっているのだという無常感に通じる現実感覚があったのかも知れません。
その意味で、俳人とはただ自身の心情を花鳥風月に託して詠んでいるのではなくて、あくまで現実の奥底に流れる「水の動き」に同調し、自分のいのちを担保にして移りゆく風景を写しとり、また舟の底から感じられる自然や死の生音に耳をかたむけている訳です。
今週のさそり座もまた、そんな俳人の根本にある精神性に、自然と引き寄せられていくことでしょう。
さそり座の今週のキーワード
オールを漕ぐリズムの記憶