さそり座
金太郎飴のような私は本当に私なのか
循環と刷新のただ中で
今週のさそり座は、循環再生され続ける“生きた自然”のごとし。あるいは、自分自身という“自然”の当たり前を捉えなおしていこうとするような星回り。
フランスの庭師で現代造園家のカリスマ的存在でもあるジル・クレマンが自身の庭づくりやそこで大切にしている“生きた自然”という考え方について語った『動いている庭』という本には、「生はノスタルジーを寄せ付けない。そこには到来すべき過去などない」という一文が出てきます。
すなわち、様々な時間サイクルを生きている多様な生きものや土壌、水、樹々などによって構成されている“生きた自然”というのは、時間の流れを直線的に捉えてしまいがちな人間の尺度には決しておさまらないのだということ。
例えば、自然豊かな“田舎”に対して、都会に住んでいる人はどうしても“遅れている”、“古き良き昔がそのまま残っている”と感じがちですが、それはそう捉える思考自体が都市化することに価値を置く考え方を前提にしているのであって、生きた自然は多様な共生関係がつくりだす循環のなかでたえず再生され、たえず刷新され続けている訳です。
その意味で、13日にさそり座から数えて「生きた交流」を意味する3番目のやぎ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、どうしたら自分を硬直した直線としての時間意識から解放し、循環を取り戻していくことができるかが問われていくことになるでしょう。
断層に出逢う
人間も庭や“生きた自然”としての大地と同じで、ほんらい幾層にも重なった地層によってできており、そこを歩き続けていればどこかで突如としてはるか古代の地層の断面ががばりと露呈してくることがあります。
当然そこで、それまでとは何かが変わってしまう。例えば、信州から10代半ばでほとんど家を追い出されるようにして江戸へ流れ着いた小林一茶などは、40を超えてはじめて自分の中に眠っていたものが表面に出てきて、「秋の風乞食は我を見くらぶる」などの露骨な貧乏句を作るようになったり、他にも奇妙な変わり様を見せて周囲を困惑させました。
こうした変化について藤沢周平の『一茶』では、一茶の世話役をしていた夏目成美(なつめせいび)をして次のように語らせました。
「これを要するに、あなたはご自分の肉声を出してきたということでしょうな。中にかすかに信濃の百姓の地声がまじっている。そこのところが、じつに面白い。うまく行けばほかに真似てのない、あなた独自の句境がひらける楽しみがある。しかし下手をすれば、俗に堕ちてそれだけで終るという恐れもある。わたくしはそのように見ました」
そういうことは、誰にでもあり得るのです。今週のさそり座もまた、一茶とのやり取りの中で発せられた成美の言葉をよくよく胸に刻んでおくといいでしょう。
今週のキーワード
“生きた自然”のモデルとしての小林一茶