さそり座
自意識のしがらみ問題
真面目さが壊れてくる時
今週のさそり座は、箸と橋とをつないでいくような星回り。すなわち、用途の中に閉じ込められていた「真面目な自分」を自由にしていくこと。
箸と橋とはまったく別ものであり、共通点は「ハシ」という音くらいのものでしょう。
けれど、音で繋がっていくだけでも、「箸」というものが機能的役割から解放され自由になっていくことがあり、そしてその自由が人の心を救うことだってあるのではないでしょうか。
何を荒唐無稽なことを、と思うかもしれませんが、それだけ人間の「真面目さ」というのは怖いものだということをお伝えしたかったのです。
これは、私たちの体が力を抜くのが下手くそで、窮地に陥るほどに力を入れてますます頑張ろうとしてしまうこととも似ているかもしれません。
「自分は真面目にやっているのだから大丈夫」が、「真面目にやっているのにどうして」に変わってきても、自分のやっていることをまだ自分の中だけに納めているうちは、なかなか真面目さというのは手放せないものです。
ですが、自分が真面目にやっていることが、全然違うところで適当にやっている(ように見える)人たちと大して変わらないじゃないか、ということになってくると、途端に真面目さは壊れてくる。
なんだか自分が滑稽で、笑えてくる。この滑稽さということが大本になって、自分の中で地滑りが起きて、それが結果的にこころや身体を自由にしていく。
今週はそうした意味での滑稽味というのを、いつもより少し高い場所にたって味わっていくことになりそうです。
文章の本質は述語
欠陥や弱点、あるいは過剰な自意識が生む悲劇や喜劇を理解していくために、カール・ユングは自分の無意識の深い層から働きかけてくる「元型」を探しなさいと言い、整体の野口晴哉は自分の立ち居振る舞いや習慣の中に現れている「体癖」を見出せといい、一方で瞑想指導者や森田療法の実践家は「あるがまま」がいいと言う。
色んな人が色んな事を言うせいで、それらをいちいち真に受けてしまうあなたはますます混乱し、疲弊してしまうかもしれませんね。
いっそのこと、「本来主語など必要ない」と思ってみるのはどうでしょうか。それは、これはもう必要以上に“私”に固執するのをやめてしまおう、「もともと‟私”など無い」と思い出そうということです。
もちろん生きていくのにもある程度のエゴの強さは必要ですが、でも根本のところでは、やはり人生は“私”を無くしていく旅なのです。そっちの方へ転がっていけると、これからずっとラクに過ごせるかもしれません。
今週のキーワード
真の意味での自立の模索