いて座
垂直的構図とスケール感
畏怖の対象をもつ
今週のいて座は、「頭上より見おろしたまふ救世観音の微笑の意味を我は怖れき」(斉藤史)という歌のごとし。あるいは、垂直的構図の中で、あらためて自分の人としてのスケール感を自覚させられていくような星回り。
畏怖とはなにかということを、こんなに端的に表現してしまっているという意味では、掲句もまさに恐るべき歌と言えます。
ふだんは気にも止めないことでも、一度気になり始めると気になって仕方なくなるということはよくあるものだが、作者の場合はそれが「観音」の微笑みだった訳です。
聖徳太子の等身の御影とつたえられている法隆寺の救世観音は、長い間だれもしの姿を見る事を許されない秘仏でした。
「救世」とは「人々を世の苦しみから救うこと」ですが、この世界は今も戦争や飢餓だけでなく、さまざまな悲惨にあふれています。それにも関わらず、観音は謎にみちた微笑みを浮かべ続けている。作者はそれが恐ろしいというのです。
救世観音は1.8メートルの長身ですが、そこまで極端に大きいわけではありません。しかしだからこそかえって、こちらを上から垂直に見下ろす視点のズレを残酷なまでに感じさせられてしまうのかもしれません。
今週のあなたも、そうした外部からの眼差しを感受することを通じて、みずからの現実に痛いほどのなまなましさを取り戻していこうとしているのだと言えます。
月山のごとく
芭蕉は「おくのほそ道」の出羽三山で「雲の峰幾つ崩れて月の山」という句を詠んでいますが、これもまた見事なまでの垂直的構図の中で、畏怖の念を呼び起こされる一句と言えるでしょう。
天にそびえ立つ雲の峰(入道雲)が崩れ、地上に降りてきて山になったようにしか思えない。そんなダイナミックなスケール感が展開されていて、ちっぽけな地上の生が一気に相対化されてしまうような感覚に陥ります。
救世観音にしろ、月山にしろ、それぞれにスケール感や傍らに置いてしっくりくるものなどは違います。
もちろん、大きければいいとか小さいからせこいとかそういうことではありませんが、やはり自分という人間のスケール感とどう重なっているかが大切になってくる。
今週は、自分のスケール感がどれくらいのものなのか、改めて考えていくべきタイミングなのだとも言えるでしょう。
今週のキーワード
身の丈