いて座
私はそうは思わない
「実存は本質に先立つ」
今週のいて座は、『木枯やいつも前かがみのサルトル』(田中裕明)という句のごとし。あるいは、大胆不敵な態度表明を試みていこうとするような星回り。
冬の寒風が吹きすさんでいる。実際に駅までの道を歩きながらそれを感じているのでもいいし、それとも屋内でサルトルのそういう写真を見ながら頭の中で想像しているのでもいいでしょう。
政治問題や社会問題に積極的に発言し、参加したことで「行動する知識人」と呼ばれ、20世紀半ばに世界的に大流行した哲学者であったサルトルの思想は、「実存は本質に先立つ」という有名な言葉に象徴されています。
「本質」というのは、ありていに言えば「(人間は)理性的であるべき」「(女性は)おしとやかであるべき」という仕方で私たちを規定してくるもののことで、逆に「実存」は“現実存在”の略で、現にあることの意。掲句で言えば、逆風が吹いていても前かがみになってでもあえて前に進んでいこうとしてしまっている私と言ったところでしょうか。
つまり、人間は人間である以上あらゆる「こうある/するべき」という考え方から自由であるということなのですが、ここで言う「自由」というのは単なる政治的なスローガンではなく、それ自体は内容を持たない「無」に根ざした哲学的理念であり、サルトルは人間を「無を分泌する存在」「無を世界に到来させる存在」と捉えていました。
そういえば、掲句は冒頭の「木枯(こがらし)や」以降は、五七五という俳句の定型をずいぶん大胆に無視した句またがりや字余りの句となっていますが、その余韻のさびしさや不安定さもまた、まさにサルトルの人間像を重なっていくように思います。
12月5日にいて座から数えて「言語化」を意味する3番目のみずがめ座のはじめで冥王星と月が重なっていく今週のあなたもまた、時代の逆風に前かがみになりながら自分なりの実存を言葉にしていきたいところです。
アブラハムの問いかけ
聖書によれば、悪徳に陥ったとされるソドムの街を住人もろとも破壊しようとした神の採決に戸惑った長老アブラハムは、そこに正義を見出せなかったゆえに、「主の前に立った」と伝えられています。
アブラハムは近寄り、言った。「あなたは本当に、正しき者を、悪しき者とともに滅ぼしてしまわれるのですか。(…)そんなことは、正しき者と悪しき者とをともに殺すことは、あなたのするべきことではないでしょう。正しき者と悪しき者を同じように扱うことも。地上のすべてを裁く者は、正義を行うべきではないですか。
主は言われた。「もしソドムに五十人の正しき者がいれば、そのものたちのために、その場所のすべてをゆるそう。」アブラハムは答えた。「主よ、(…)あえて申し上げます。正しき者が、五十人に五人足りなかったとしましょう。それでも、五人足りなかったばかりに、あなたは街の全体を滅ぼそうとしてしまうのですか。」「四十五人の正しき者がいたなら、破壊をやめよう」と主は言った。さらにアブラハムは主に語りかけた。「四十人いたらどうなさいますか。」主は答えた「その四十人のために破壊をやめよう」
(…)それから(アブラハムは)言った、「おお、主よ、お怒りにならないでください。重ねて、今一度だけ申し上げます。十人いたとしたら、どうなさいますか。」「その十人のために破壊をやめよう」と主は答え、アブラハムと語り終えたとき、主は去っていかれた。アブラハムは自分の場所に戻った。(『創世記』第18章23-33節)
アブラハムは絶対的権威たる神に哀願しつつも、同時に不平を言い、疑問を投げかけ、批判をし、忍耐強く食い下がりました。つまり、自分で考えたことを単に表明するだけに留まらず、賢明に語りかけたのであって、それゆえに神は「アブラハのことを重んじた」(19章29節)のではないでしょうか。
今週のいて座もまた、本当に必要なときはアブラハムのように黙って受け入れる以外の言動に出ていくことができるかがテーマとなっていくでしょう。
いて座の今週のキーワード
逆風に前かがみ