いて座
手と手
いかに愛すべきか
今週のいて座は、ヘブライ語の「ヤディド」という言葉のごとし。あるいは、直接的なふれあいを通して親交を結んでいこうとするような星回り。
ユダヤ教・聖書研究者の前島誠は『不在の神は<風>の中に』のなかで、ヘブライ語で「手」「力」「傍ら」「記念」などを意味する「ヤード(YD)」という名詞から、「手でする」を原意とする動詞やさらにその派生語が作り出されとして、例えば、詩篇に次のような句を取り上げています。
暮らしを支えるために朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いたとしても、それが何になるのか。主は愛する者に必要な休息をお与えになるのだから。(詩篇127・2)
原文を参照すると「愛する者」はヘブライ語で「友、親友」を意味する「ヤディド(YDYD)」という言葉で、語形から見ると「手と手」とも読むことができますが、これは「親交をもつ、仲良くする」の意味をもつ「ヤデド(YDD)」という動詞からの派生語なのだそうです。
つまり、複雑な国際関係で揉まれた古代イスラエルにおいて、真の絆や親愛の情とは、見た目や服装から生まれるのでも、会話や音から生まれるのでもなく、両手の手(行い)によって初めて成り立っていくものと考えられていたのであり、黙したまま手と手が触れ合い、そこでじかに相手に触れることが、真の理解に繋がっていくとされ、そうした価値観の上で「手」から派生した言葉が神(ヤハウェ)への賛美の詩にも用いられていた訳です。
なお、行動を伴わない言葉をいくら紡いでも不毛なだけという現実は、男女の仲において最も顕著となりますが、「知る」という意味の「ヤダァ(YDa)」という言葉は、同時に、アダムとエバのような男女が「枕を交わす」という意味でも用いられていました。そして、こうした触覚への最視こそ、現代で最も見失われた観点なのではないでしょうか。
12月1日に自分自身の星座であるいて座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、何によって知るべきかという最初の“一手”に立ち返り、頭で考えたことよりも手で感じたことにこそおのれの未来を託してみるといいでしょう。
「汝の存在を欲する」
思想家ハンナ・アーレントは社会の絆の存在論的根拠を問うなかで、「アモー・ウォロ・ウト・シス 」というラテン語の重要な一文が取り上げています(『アウグスティヌスの愛の概念』)。
直訳すれば「わたしは愛する。わたしはあなたが存在することを欲する」。相手に何かしてほしいという訳ではなく、こちらから何か特別な働きかけをしている訳でもない。この言葉が、実際どこまでの重さをもって書かれた言葉なのかは正直わかりませんが、アウグスティヌスがこの言葉を記し、それにアーレントが反応したとき、そこには何らかの思いの奔流が確かに存在したのだろうということだけは、事後的にそれを後追いしている私たちにも感じ取れるはず。
そしてそれは、この言葉がそれ自体では何も語っていないこと、何の含みもなく、したがって目的合理性に絡みとられることがないがゆえに、ただ現にいま交わり(手と手)が存在し、それがこれからも存在していくことへの純粋な祈りになりえている点において豊かなのだという、ある種の直感に裏づけられているのではないでしょうか。
今週のいて座もまた、それ自体では何も語っていないがゆえに豊かであるような無心の祈りの先で、誰か何かとの交わりを育んでいきたいところです。
いて座の今週のキーワード
手の倫理