いて座
量子もつれ的交わり
「絡み合い」と「もつれあい」のはざまで
今週のいて座は、世間的な付き合いからの沈潜のごとし。あるいは、一般的にはカテゴライズできない関わり合いへとますます舵を切っていくような星回り。
メルロ=ポンティが諸関係の集合としての身体性について論じた『見えるものと見えないもの』の「絡み合い」の章で強調しているように、われわれは触れるという行為のなかで必ずや触れられているのであり、われわれはある意味で、働きかけられることなしに働きかけることはできません。
それは二つの実体の結合ないし合成ではない。そうではなく、肉はそれ自体で思考可能なものである。ただしそのためには、見えるものとそれ自身との関連があって、それが私を貫き、私を見る者として構成しなければならないのだが、この循環は私が形成するものではなく、私を形成するものでって、このように見えるものが見る者に巻きつくこと(enroulement/巻き取り)が、私の身体と同様に他の諸身体をも貫き、それらを賦活するのだ。
では、こういうことを人と人とのあいだに生じる関係において考えてみるとどうだろうか。結婚や同棲と別居や離婚とのあいだを行ったり来たりする人が多数を占めるように、まずわれわれが取り結んでいるものは、「関係」という語が連想させる固定的で静的なものでもないはずです。また、その不安定さが多くの悩みの原因となることから、「絡み合い」と語よりもっとネガティブな意味合いを含んだ「もつれあい」と言った方が適切であるように思えます。
すなわち、もともとはバラバラであったものが近づき、徐々に絡み合い、時にほどけ、そのまま再びバラバラに戻ることもあったり、かえって複雑に巻きあったりするように、そのつど移りゆく動的な変化のなかで、比較的安定して見える面を「友人」や「恋人」などと呼んだりするだけで、逆に言えばそうした一般的な呼称にとらわれない関わりのほうが、よほど豊かなのではないでしょうか。
10月3日にいて座から数えて「交友」を意味する11番目のてんびん座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、安定した関係性の名称からは見えてこないような領域での「もつれあい」や「絡み合い」へと振れていきやすいでしょう。
「劇場」の破壊
例えば、寺山修司が1975年に制作した『犬頭の男』は、阿佐ヶ谷の街を舞台に、30時間何かが起こっているという状況演劇なのですが、まず街のタバコ屋さんやパン屋さん、時計屋さんなどにハガキが届くのです。
そこに書かれているのは「タバコの火を貸してくれませんか」という内容で、数日後に実際にシルクハットに口髭の男が火を借りに訪ねてくるが、怪しいふるまいをする訳でもなく、長居して迷惑をかける訳でもないので、かえって不気味に感じられる。要するに、自分の生活空間において、ある期間に本当のことなのか空想なのかよく分からないような状況があちこちで起こるという作品で、そうした状況が平穏な街の日常に裂け目を入れていく。寺山は、そういう作品を通して「劇場」という静的固定的な枠を壊そうとしたのです。
劇場では観客は観客席に座って舞台上で起きていることをただ他人事として傍観しているだけで、何も脅かされないし、終って幕が引けば、またいつもの日常に戻れることが決まっている。それでいいのかと問い直したかったのでしょう。
そして、今週のいて座もまた、想定外の事態や関わりを通じて、自分の日常における線引きに揺さぶりをかけていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
「タバコの火を貸してくれませんか」