いて座
ただくりかえすボール遊び
反復と転生の歴史
今週のいて座は、さびしくかなしい遊びとしての毬つきのごとし。あるいは、同じ場所に立って、何かをひたすら繰り返していくことの遊戯性を深めていくような星回り。
以前、寺山修司が同じボール遊びでも、西洋由来のサッカーと日本の毬つきとでは根本的なところから発想が違うのだということを書いていました(『青蛾館』)。
先ず、境界線を作るところからはじめた。ディーン人とイギリス人、敵地と味方地―白い線で、フレームを限定し、ルールを作ってゆくのは、地つづきに他国と隣接している民族、支配によって繫栄してきた牧畜民族の必然であったのだろう。何しろ、ヨーロッパのボール遊びは、ルールによって国家を形成し、その中で個(頭蓋の喩えとしてのボールのような)の運命をもてあそぶ。
寺山の論調を借りれば、サッカーという遊びは「邪魔な頭蓋骨をできるだけ遠く、自分たちの陣地の外へと蹴り飛ばしてしまおう」という情念がベースになっている「怒りと憎しみから出発した戦争の代替」であるのだと言えるでしょう。
ところが、わが国のかくれんぼ、鬼ごっこ、そして手毬つきなどは、反復と転生によって生きのびてきた農耕民族の作り出した、家のまわりの遊びである。はじめから境界という概念がなく、ただくりかえす。それは、一本の樹が春から夏をへて、秋を経験して、冬に死滅し、また次の春に甦るのと、どこかでつながっているように思われる。
サッカーの愛国性や熱狂ぶりと比べれば、日本の毬つきは「さびしく悲しい遊び」であり、ひたすら同じところにとどまって何かを待ち続けるという遊びぶりについて、寺山はそのまま「歴史の比喩」であるとも述べています。
とはいえ、現代日本ではみなサッカーに首ったけで、ワールドカップなどの大きな大会の開催期間中であればサムライジャパンと連呼するのになんら違和感を感じなくなってしまいました。
その意味で、9月18日にいて座から数えて「歴史性」を意味する4番目のうお座で中秋の名月(満月)を迎えていく今週のあなたは、たとえたった一人であっても今こそ毬つきのプレイヤーとなっていくことがテーマとなっていくでしょう。
先回りして自らを壊す
秩序あるものは時間の経過とともにカオティックに混乱していき、一点に集まったエネルギーもやがては分散していく。
つまり、いくら整理整頓した机や部屋も時間が経てば必ず散らかるし、熱烈な恋もいつかは冷めてしまうのだということを、熱力学では「エントロピー増大の法則」と呼んでいますが、このエントロピーとは「混沌」という意味で、その先にあるのが私を構成しているモノや関わりのいっさいの離散としての死である訳です。
そして、そんなエントロピーの増大に絶え間なく抵抗しているのが、すべての細胞を入れ替え続けることで死を免れて「生きて」いる人体であり、生命の働きであり、もっと言えばそれは毬つきのような遊びなのです。
というのも、生命というのは細胞が自然に壊れる前に先回りしてみずからを壊し、その不安定さを利用して新しい細胞を作り出す活動をしていて、それは同じ場所から離れずに毬つきをし続けているようなものなのだと言えます。
ただ、それでも新たに作られる細胞より徐々に壊れていく細胞が増えていくことで、人は老い、死を迎えていく。今週のいて座は、みずからの老いを受け入れつつも、それでも生きた生命として宇宙的な死のプロセスに静かに淡々と抗っていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
毬をつくたびに古きは死んで、はねかえってくるたびに新たに生まれる