いて座
何もないが何かがある
謎の感覚
今週のいて座は、『緑陰に襟足の吸い込まれたる』(宮本佳世乃)という句のごとし。あるいは、後ろ髪を引かれる感覚の繊細さにきちんと意識を向けていくような星回り。
何が起きているのかよく分からないながらも、どことなく漂う不穏さが妙にあとに残る一句。だが、拝む神であれ自身の運命の行き着く先であれ、突き詰めれば分からないことだらけのこの世の中で、みずからの道行きにこうした謎らしい謎を携えてみるのも、それはそれで悪くないのではないか、という気もしてくる。
日光が真上から差し込んでくる夏場の木陰は、どの季節の木陰よりもその影が濃く暗い。そのため、日の当たる真っ白な空間から緑陰へさしかかったその一瞬、視覚がきかなくなって、自分がどこを歩いているのか分からないような感覚に陥るもの。
掲句は、それでなんとなく不安に駆られ、足早に緑陰を通り過ぎようとしたところを、ひゅっと襟足が吸い込まれたというのだ。これはどういうことなのか。もちろん、現実に起きた出来事というより、ある種の妄想ないし幻覚に近い体験なのだろう。
しかし、「襟足」は首の後ろのうなじの髪の生え際で、急所であるがゆえにもっとも第六感に訴えてくる度合の強い身体部位の一つであり、視覚の頼れない状況下では非情に鋭敏なる箇所と言える。つまり、そこにはやはり何かがあるのだ。
だからと言って、振り返ってはいけない。目には見えず、実体は明らかではないのだから、振り返ればますます迷いは深くなる。後ろ髪を引かれている事柄を、ただ首の後ろで感じつつ、それでも前を向いて歩いていくのがこの場合の正解なのかも知れない。
7月28日にいて座から数えて「反省」を意味する6番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、なぜそうなったのか分からないという出来事ほどさっさと結論を出さずに、あえてひきずってみるといいだろう。
漂白する一艘の舟となる
私たちが時おり訳もなく哀しくなるのは、文明社会ではあらゆる物事が予定調和的にコンクリートで固められ、現実のたえず揺れ動いて捉えどころのない側面に蓋がされていくことに、一個の生命としてどうしようもない違和感が覚えてしまうからだろう。
例えば、俳句の五七五のリズムは元をたどれば海洋民におけるオールを漕ぐリズムの記憶を伝えるものであるという説があるが、それは自分たちが拠って立つのはつねに安定している大地などではなく、いつ何時揺らぐか分からない船の上であり、その下には人間にはどうしようもない海という大自然が広がっているのだという無常感に通じる現実感覚があった。
その意味で、俳人とはただ自身の心情を花鳥風月に託して詠んでいるのではなくて、あくまで現実の奥底に流れる「水の動き」に同調し、自分のいのちを担保にして移りゆく風景を写しとり、また舟の底から感じられる自然や死の気配を察知しているのだと言える。
その意味で、今週のいて座もまた、そんな「水の動き」にますます自分を近づけてみるといいかも知れない。
いて座の今週のキーワード
板子一枚下は地獄