いて座
義を果たすなり
一肌脱ごう
今週のいて座は、“負う”のでなく“感じる”ものとしての責任のごとし。あるいは、誰に頼まれた訳でなくとも、これを自分はやらなくてはいけないという「義」を発動させていくような星回り。
昨今の自己責任論に顕著に見られるように、私たちはいつからか「責任」という言葉を、何か事件やトラブルが起きた際の「誰のせいなのか?」といった声に象徴される帰責性の代わりに使うようになってしまいました。しかし、哲学者の國分功一郎と当事者研究で知られる医師の熊谷晋一郎は『<責任>の生成ー中動態と当事者研究ー』において、「責任」というものがきわめてネガティブな意味合いで使われるようになってしまった要因は、「意志」という概念との強い結びつきにあると述べた上で、次のように指摘しています。
意志の概念を使ってもたらされる責任というのは、じつは堕落した責任なのです。本当はこの人がこの事態に応答するべきである。ところが、応答するべき本人が応答しない。そこで仕方なく、意志の概念を使って、その当人に責任を圧しつける。そうやって押しつけられた責任だけを、僕らは責任と呼んでいるのです。
では別の「責任」があるとすれば、それはどんなものか。國分は「義の心」を挙げています。すなわち、論語の「義を見てせざるは勇気無きなり」という言葉に基づいて、人の道として当然行うべきことと知りながらそれを行わない訳にはいかないと心から“感じた”何かに出逢ったとき、人は「義」というものを知り、それに応えようとするのではないかと。
その意味で、5月23日に自分自身の星座(生命力の座)であるいて座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自分が人として当然行うべきことへ導いてくれる「義の心」に、いつも以上に敏感になっていきやすいでしょう。
最も的確な告発としての詩
昭和を代表する批評家で思想家であった以前に、ひとりの詩人でもあった吉本隆明は、『詩とはなにか―世界を凍らせる言葉―』という本の中で、次のように述べていました。
詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、かくという行為で口に出すことである
つまり、吉本にとって詩とは考えうる限り最も的確な「告発」であり、決して今日「ポエム」などと揶揄されるような曖昧で自己陶酔的な世迷い事の類いではなかった訳で、むしろ先の「義の心」の発動を伴うものであったように思います。
それは幻想としての国家の成立を描いた国家論である『共同幻想論』が1981年に文庫化された際の序文でも強調されていました。
この本の中に、私個人のひそかな嗜好が含まれてないことはないだろう。子供のころ深夜にたまたまひとりだけ眼が覚めたおり、冬の木枯しの音にききいった恐怖。遠くの街へ遊びに出かけ、迷い込んで帰れなかったときの心細さ。手の平を眺めながら感じた運命の予感の暗さといったものが、対象を扱う手さばきのなかに潜んでいるかも知れない。
今週のいて座もまた、そうした意味での“詩情”を込めつつ、自分がやらなくてはと感じるような「ほんとうのこと」を伝えていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
「義を見てせざるは勇気無きなり」