いて座
理想の終わり
鮮やかな黄色に送られて
今週のいて座は、『農夫の葬おのがつくりし菜の花過ぎ』(加藤楸邨)という句のごとし。あるいは、いつか必ずやって来るだろう最期を前もって思い描いていくような星回り。
とある農村でひとりの農夫が死んだ。葬式の棺桶を運ぶ人の群れが過ぎてゆく。昔の農村ですから、車ではなくまだ人力でしょう。
その際、その農夫が蒔いた種から育った菜の花が咲いているその横を、今は遺体となって粛々と通り過ぎていくのだというのです。人様のお葬式というと、その場に居合わせるにせよ、言葉にするにせよ、にこりともせず真面目な顔をしなければいけないという風潮がありますが、ここにはそこはかとないユーモアを感じます。
というのも、掲句に描かれた死は決してみじめな死ではなく、むしろ農夫としてはとても光栄なものだったはずだから。確かに、今年は自分で菜の花をおひたしにして食べたり、その直接的な恩恵にはあずかれなかったけれど、自分で育てた菜の花に見送られるのだから、「よかったじゃないか」とそっと声をかけているような感じです。
少なくとも、掲句を詠んだときの作者の胸中には、今までにない温かなものがうごめいていたのではないでしょうか。2月24日にいて座から数えて「到達点」を意味する10番目のおとめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、理想の人生の終え方を自分なりに明るく構想してみるといいでしょう。
無一物で生きろ!
人間は誰しも手土産ひとつなしに、ただ命だけを授かってこの世に登場して、しばらくの間その授かった命一つを息吹かせたら、また何も持たずにこの世を去っていくもの。
しかし、人間はそれだけでは心許なく感じる生き物でもあり、自分の内部や周囲に身分や資格や名誉、習得した技術や資産、家族や友人、パートナーなどをまといつかせ、それらをまるで目に見えない衣装のように着込んで初めて安心できるのだと思い込んでいるようにも見えます。
かつてギリシャでは、前者のような“剝き出しの生”を「ゾーエー」と呼び、後者のような“社会的な生”を「ビオス」と呼んでこれらを区別しましたが、今週のあなたは、ある意味で通常は各々のなかで縫い合わされてすっかりごっちゃになってしまっているこの両者の区別を改めて迫られていくはず。
すなわち、砦やバリケードのように強固な安心の拠り所であるかのように思える「ビオス」こそ、自分の溌溂とした魅力や創造性を奪う拘束服に他ならないのだということを、いかに悟れるかが問われていくのです。
その意味で、今週のいて座は、うまくいけば、いのち本来の“軽み”を取り戻していくことができるかも知れません。
いて座の今週のキーワード
剝き出しの簡素な生