いて座
異なるリアリティを行き来する自由
時代の病い
今週のいて座は、病院の外出・外泊申請のごとし。あるいは、SNSという「血の池地獄」の“外”へこっそり抜け出していくような星回り。
「自己承認欲求」という言葉をよく聞くようになった、と橋本治が書いていたのは2017年になったばかりの頃のエッセイでした。どうもその頃から、私たちは「どうでもいい写真をSNSに載せるのは自己承認欲求だ」とか、そういう言い方を頻繁にするようになったのだそうですが、それが「自己主張」ではなく「自己承認欲求」なのは一体どういうことなのでしょうか。
相手がいなくても勝手にできるのが自己主張なら、自分を認めてくれる相手を必要とするのが自己承認欲求なわけで、そうすると自己承認欲求というのがここまで広がっているのは、いつの間にか人として一人前になるためには誰かに認められなければならないということになっているのであって、橋本はそうすると、誰がそうした承認欲求を満たしてくれるんだろうか、と畳みかけます。
芥川の昔なら、認められたいと集まった者が集まる地獄を上から見ているお釈迦様がいて、これはと思った場合は蜘蛛の糸を下ろしたりもしたけれど、現代のように「特別な立場」なんて幻想がすっかり壊れてしまった世界では、泥棒もお釈迦様も平等に「自己承認欲求のさざ波が立つ平等の血の池地獄」に立ってあえいでいるんじゃないか、と。
一方で、橋本は自身の経験を踏まえて「世の中って、そんなに人のことを認めてなんかくれないよ」と漏らし、「自己承認欲求というのは平和がもたらした贅沢な産物」であり、もう自分は一人前の大人なんだ、という明確な自覚をそれ以外の方法で持てなくなってしまった人がかかる現代病なのだと釘を刺します。
4月13日にいて座から数えて「生きがい」を意味する2番目のやぎ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした自己承認欲求を煽る構造の外部へと、何でもないようにひとり歩いていけるかどうかが問われていくことでしょう。
国家なきアナキズムを生きた人々
柳田國男が明治43年(1910)に書いた処女作『遠野物語』の冒頭には、次のような一節があります。
国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
これは明治の末になっても、平地民にとって自分たちとはまるで異質な存在である「山人」たちが、鬼や天狗、山男、山姥などに形を変えて、国家の支配から免れながら「物深き所」で非国家的空間を形成し続けていたということを裏付けているように思います。つまり、山というのはつねに国家に抗う「まつろわぬ民」の住処だったのであり、そうした民話は柳田にとって架空のおとぎ話というより、どこかで現実の向こう側へと突き抜けていくためのリアルな手がかりだったのです。
例えば、柳田は戦後まで長らく狩猟や焼畑で生計を立ててきた宮崎県の椎葉村を訪れた際に、人々が富を平等に分配していることに感動し、奇跡的なユートピアであると感じたようです。それは平等主義が高い理想のもとで実現したというより、自分たちのコミュニティが階層的で抑圧的な場所にならないよう、あえて平地と真逆であろうとした結果でした。
その意味で、今週のいて座もまた、どうしたらこれまで当たり前のように引き受け、生きてきた現実の苦しさや抑圧を解消していけるかどうかがテーマとなっていくでしょう。
いて座の今週のキーワード
時には「山人」になってみよう