いて座
過剰な文明化への反動
謎のキラキラ感
今週のいて座は、『日の春をさすがいづこも野は厠』(高山れおな)という句のごとし。あるいは、なんとはなしに兜の緒をゆるめていこうとするような星回り。
「日の春」は「春の日」の言い換えで、のどかで暖かくゆったりと、長く感じる1日の意。要は「あ~、こんなにいい天気だしここは野原だし、もうどこで用を足してもいいよね」みたいな句だと思うんですけど、どうしてこうもキラキラしているように感じるのか。
見慣れた季語をひっくり返したから?文語的な表現でつないだから?おそらくここで肝になっているのは「を」でしょう。
「が」が「状態の当事者」としての機能を果たすのに対し、「を」は「行為の被動者」としてみずからが受けた作用の源としての対象を指示していきますが、掲句では季節の移り変わりや暖かい日差し、目の前に拡がる自然に対して、ただただ自分が受け身でいることを表しているわけです。
その意味で、帰結としての「野は厠」というのも、ただ羽目を外したとか我慢ができなかったという文脈をこえて、自然を讃える気持ちがおのずと溢れてきた結果、対象と同一化してしまったということなのではないでしょうか。
2月14日にいて座から数えて「自然な一体感」を意味する12番目のさそり座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、無意識のうちに過剰になっていた自己防衛機制をいかにゆるめていけるかということがテーマとなっていきそうです。
文明と敗北
『生誕の災厄』を書いたシオランによれば、「人間は心の奥のまた奥で、意識以前に住みついていた状態へ、なんとか復帰したいと渇望して」おり、「歴史とは、そこまで辿りつくために、人間が借用している回り道にすぎない」訳ですが、ではそんな「回り道」を構成する一部として個々の人生においては、一体どんなことを為し得ると言うのでしょうか。
少なくとも、シオラン自身は本を書くということに何がしかの意味を見出していたはず。
一冊の本の真価は、扱われる主題の大きさによるのではない。そうではなくて、偶発的なもの、無意味なものと取り組み、微細なものに習熟する、その流儀にかかっているのだ。重要なものは、かつてどんなささやかな才能をも求めたことがない。
ある個人が、天賦の才に恵まれていればいるほど、精神の次元での歩みは遅々たるものになる。才能は内面生活にとって障碍でしかない。
肝心なことはひとつしかない。敗者たることを学ぶ―これだけだ。
今週のいて座もまた、思い切って「敗者」の立場に身を置いて、そこで初めて見出すことのできる偶発的なものや無意味なもの、微細なものを確認してみるといいでしょう。
いて座の今週のキーワード
くびきからの解放