いて座
現実との間合いをはかる
身体尺
今週のいて座は、『寒卵ひところがりに戦争へ』(藺草慶子)という句のごとし。あるいは、よく手になじんだ道具で現実をはかり直していこうとするような星回り。
「寒卵(かんたまご)」とは、鶏が産卵期に入る冬に、昔から卵が庶民の貴重な栄養源とされてきたことが由来の冬の季語。掲句はその丸みをおびたフォルムから、平和な日常を象徴しているかのような卵が、突然戦争の世界にころがっていったという、どこかゾッとするようなモチーフの意外性が光る一句。
おそらくは、食卓に目玉焼きが並ぶようないつもの朝食のひとときに、何気なくつけたテレビの映像を通じて、ウクライナの街に降りそそぐミサイルや逃げ惑う人々の光景が地続きになってしまったのでしょう。
掲句において「寒卵」と「戦争」の間合いは、おそろしく近い。そしてテーブルの上をゴロリと転がるその冷たい響きには、なにか近づいてくる軍靴を暗示するような予感めいたものを感じます。
1月22日にいて座から数えて「思考の尺度」を意味する3番目のみずがめ座で新月を迎えるべく月を細めていく今週のあなたもまた、作者における「卵のひところがり」のような自身の身体性に即した尺度で目の前に起きている現実を捉え直していきたいところです。
「素足」の効用
周りに良い印象を与えるために価値を水増しすることを「下駄を履かせる」などと言いますが、SNSのフォロワー数など目に見える数値で価値がはかられる現代社会というのは、知らず知らずのうちに自分に「下駄をはかせる」ことを強要する社会でもあるように思います。しかし、それはしばしば現実との距離感を見失わせる副作用をもたらすもの。
「素足」とは、何よりもまず、ひりひりとした新鮮な感受性である。また、正確な平衡の源泉である。総じて、大地の直接の感覚である。(中略)さらに、大地の感覚は「地下の異次元世界に通じ」その底から患者を仰ぎみる感覚をもさずけてくれる
そう書いていたのは、霜山徳壐の『素足の心理療法』の書評を書いた精神科医の中井久夫でした。書名の意味するところは、技法以前の著者が心理療法に臨む「通奏低音」において、「病む者へのつつましい(小文字の)畏敬」なのではないかとも述べていましたが、これは思考の尺度が問われる今のいて座にとっても大事なことなのではないでしょうか。
「靴をはかない」ということは不偏不党という気楽なことではない。自分の素足で歩くということは「雪の上を裸足でよろめいて行く」と述べられてあるとおり、何によっても守られていないということである。
その意味で、今週のいて座もまた、まずはいつの間にか履いていた下駄を脱いで、よろめいて行くところから、改めて現実との距離感を捉え直していくことになるでしょう。
いて座の今週のキーワード
理解(understand)は足元から