いて座
Don’t think! FEEL.
生命における特別な現れとしての「より以上」
今週のいて座は、スポーツを見て感動する理由のごとし。あるいは、自分が自動機械ではない実感をあらためて積み重ねていこうとするような星回り。
哲学者アンリ・ベルクソンは1912 年に行われた『魂と体』という講演の中で、「われわれの一人ひとりは一つの身体である」と認める一方で、「私」とは「空間においても時間においても身体を超えるように見える」ものであると述べています。
「身体である」ところの「私」が「身体を超えるように見える」とは、一体どういうことなのか。ベルクソンは、それにみずから答えるように、次のように語っています。
「身体は時間においては現在の瞬間に閉じ込められ、空間においては占める場所に限定され、そして自動機械として行動し外的な影響に機械的に反応するわけだが、その身体のそばで、空間において身体よりずっと遠くへひろがり、時間を横断して持続する何か、もはや自動的でも予測されているのでもなく、予測不可能で自由な運動を身体に対して要求し命じる何ものかを、我々は捉えている。あらゆる面で身体をはみ出し、新たに自分自身を創造することによって行為を創造するこの何かとは、「自我」であり、「魂」であり、精神である。精神とは、その力が含む「より以上」をそれ自身から引き出し、その力が受け取る「より以上」を返し、それが持つ「以上」を与える。」
そう、スポーツは、まばたきする間に消えてしまうような、生命における特別な現れ、あるいは人生の特別な瞬間のイメージを私たちに与えてくれるがゆえに感動的なのであり、それは私たちひとりひとりに「自分は単なる自動機械ではない」ということを思い出させてくれているのではないでしょうか。
12月30日にいて座から数えて「創造性の発揮」を意味する5番目のおひつじ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「より以上」を引き出すものとして身体やその遊戯の可能性を、少しでも実感していきたいところです。
氷を割るための一撃
例えば、作家プルーストの晩年は外の音が聞こえないよう壁をコルク張りにした部屋に閉じこもって、『失われた時を求めて』の執筆だけに専念していたとされていますが、彼こそまさにひたすら魂から「より以上」を引き出す試みに没頭していた人間の典型なのだと言えるのではないでしょうか。
紅茶とマドレーヌ、石畳の道のイメージから、『失われた時を求めて』というとどうしても懐かしい追憶の日々を想う甘ったるいノスタルジー文学のイメージが先行しますが、死後に出版された未完成のエッセイ『サント=ブーヴに反論する』では、みずからもまた深く関与している芸術という営みについて、次のように語っています。
ぼくたちが行うことは、生の源[原初の生]へ遡ることだ。現実というものの表面には、すぐに習慣と理屈[理知的推論]の氷が張ってしまうので、ぼくたちはけっしてなまの現実を見ることがない。だからぼくたちは、そうした氷を全力で打ち砕き、氷の溶けた海[現実]を再発見しようとするのだ
現にそれを生きているときは、そのあまりの間近さのため、また騒々しさと慣れのために、なまなましく感じとることができず、「氷が張って」いるかのように感じるという点では、現実も自分も同じであるはず。
その意味で、『失われた時を求めて』では徹底して自分自身の在りようこそが問題とされているのであり、プルーストにとって書くという営みは、自己否定、生否定のニヒリズム(氷)の向こうに広がるありうべき現実を肯定するために打たれた鑿(のみ)の一撃だったのではないでしょうか。願うことなら、今週のいて座もかくあるべし。
いて座の今週のキーワード
燃えよドラゴン