いて座
長閑で未熟な現代という時代のなかで
現状に飽きるとき
今週のいて座は、『走ること忘れし馬の長閑(のどか)かな』(増永徂春)という句のごとし。あるいは、打ち破るべき停滞を見出していこうとするような星回り。
春から初夏にかけてのある長閑な日に、馬に乗っているか、馬車を駆って野道を過ぎていると、その馬は走ることを忘れてしまったかのようにただ歩いているというのです。余計な力の抜けた、じつに軽みのある一句ですが、もしこの「馬」を人に置き換えるとするなら、掲句はどうなるでしょうか。
走ることは馬が馬であることの根幹をなすほど本質的な要素ですから、人間においてそれに並ぶ営みがあるとすれば、それは「考えること」でしょうか、それとも「遊ぶこと」でしょうか、はたまたいて座であれば「善をなすこと」でもいいかも知れません。
とすれば、それは「考えることを忘れし人間の長閑」であり、「遊ぶことを忘れし人間の長閑」であり、「善なすことを忘れし人間の長閑」であって、わりあい現代人の実状そのままという気もしてきますし、「長閑」という言葉にも途端にブラックな風刺味が加わるのが感じられるはず。
同様に、5月9日にいて座から数えて「精神的成長」を意味する9番目の星座であるしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、弛緩と緊張の両極端を自分なりにできるだけ大きく振れていくべし。
われら未熟の惑星の住人
映画化もされたミラン・クンデラの代表作『存在の耐えられない軽さ』には、当初『未熟な惑星』というタイトルを付けようとしていたのだとか。「惑星」はもちろん地球のことですが、なぜ「未熟」なのか。彼はこう言っています。
人間が人間として在る条件の1つに未熟ということがあり、私たちは若さの何かを知らずに少年期を去り、結婚を知らずに結婚し、自分がどこへ向かっているのかをよく知らずに老境へ入っていく。ゆえに、「老人は自分の老齢に無知な子どもであり、この意味で人間の世界は未熟の惑星なのである」と。
惑星は「惑う星」と書くように、恒星などと違って宇宙をたえず彷徨っている星であり、確かに私たち人間もまた、いくつになっても現在の自分がいったい何を為しているかを知ることができないという意味で、徹頭徹尾「未熟」なのだという訳です。
とはいえ、作者は必ずしも「未熟」という言葉をネガティブな意味で用いている訳ではなく、ただ放っておくとすぐに「半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる」現代という時代の特性について言及しているだけという気もします。そして今週のいて座もまた、おそらく掲句の作者がそうだったように、自分もそんな未熟な惑星の住人なのだということを思い出していくことでしょう。
いて座の今週のキーワード
老人は自分の老齢に無知な子どもであり、この意味で人間の世界は未熟の惑星なのである