いて座
理性を立て直す
ハッとして!bad
今週のいて座は、『鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな』(渡辺白泉)という句のごとし。あるいは、小さな現実で満足するか、それさえも見落としてしまうか分かれていくような星回り。
平和な初夏の、庶民的なワンシーンをイメージさせる一句ですが、この句が敗戦から2年ほどたった頃に詠まれたものであると知ったとき、その解釈は否が応でも変化せざるを得ないはず。
作者は戦前に言論弾圧で検挙された履歴をもち、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」などの戦前句でも知られていましたから、掲句もまた本当の意味での自由を象徴する青葉の世界に出るに出られぬ「篭の鳥」に、自分を含めた当時の日本人を見出し、鋭い風刺の精神をもって戦後民主主義への批判を込めたのでしょう。
この句が詠まれてから、70年以上が経ちました。しかしいくら時代が進もうとも、主権在民であるとか男女平等というものはしょせんは「篭の中の鳥」のようなものなのかも知れません。ただそれでも、青葉は青葉。言葉は言葉。はじめから無理なものは無理なのだと匙を投げるか、目の前のささやかなよすがをもとに、篭を抜け出すチャンスを虎視眈々と狙っていくかは本人次第。
5月1日にいて座から数えて「必要な調整」を意味する6番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、いま現在自分が置かれている立場や現実に思わぬ落とし穴はないか、改めて目を光らせていくべし。
狂った社会における「危機」とは何か
鴨長明によって書かれた『方丈記』と言うと、すぐに無常とか無常観といったことが持ち出されますが、どうもそれは気が早すぎる話で、まず前提として当時は災害に飢饉に疫病に加え、戦乱で泥棒をしなければ生きられない、人を傷つけなければ、近親者を蹴落とさなければ生きられなかった時代だったのです。つまり、別に特別に観念としての無常などということを持ち出さなくても、気狂い沙汰が横行していた社会だったということ。
世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
例えば方丈記にもこの一節に関しても、実状としては「したがはねば」というより「世にしたがへばしたがふほど」に「狂せるに似たり」だったのではないでしょうか。
そして狂せる世の中にあって、狂せる「わざ」をして生きて行かなければならぬという状況下で、鴨長明は親切な申し出を受けて立派な肩書きを手に入れる代わりに、出家して京都郊外の比叡山のふもとの地・大原に隠棲することを選んだのです。
今週のいて座もまた、危機の時代を生き延びていくにあたって、危機とは何か、生き延びるとはいかなることを指すのか、ということについていま一度思案してみるべし。
いて座の今週のキーワード
世にしたがへばしたがふほど、狂せるに似たり