いて座
どうしても捨てきれないもの
この世にあることへの倦怠
今週のいて座は、漱石の「春風吹きて断たず、春恨幾条条」という漢詩の一節のごとし。あるいは、普段なかなか言葉で表すことのできない思いを言語化していくような星回り。
夏目漱石は近代日本を代表する小説家ですが、一方で幼い頃から漢詩に親しみ、自身もまた漢詩人としても知られた人でもありました。そんな彼が晩年、小説の大作をものした傍ら、日記に書きつけた五言絶句に、次のようなものがあります。
渡尽東西水 渡り尽くす東西の水
三過翠柳橋 三たび過ぐ翠柳(すいりゅう)の橋
春風吹不断 春風吹きて断たず
春恨幾条条 春恨(しゅんこん)幾条条(いくじょうじょう)
「翠柳」とは、みどりの芽をふいた柳の木のことで、ようやく春を迎えた野原を横目に川のほとりを歩いている情景が描かれますが、後半二句がどうもおだやかではありません。
「春恨」は春の物思いや、憂い、憂愁のことであり、「幾条条」の「条」は柳の枝のこと、また細長いものを数えるときの「すじ」の意味にも使います。すなわち、後半二句は、枝枝にこもる春の憂いや物思いは、なごやかな春の風でも断ち切ることができない。いや、のどかに変じた初春の景色を歩けば歩くほどに、むしろ強まっていくのだ、というのです。
その「恨み」がどんなものなのかははっきり示されてはいませんが、幾重にも重ねられたこの世の不条理への違和感や苦しみなど、おそらく特定の誰に向けられたものでもない、この世に自分があることそのものへの倦怠のようなものなのかも知れません。
その意味で、2月8日にいて座から「膿み出し」を意味する6番目のおうし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、心身の奥底に根を張った割り切れない思いや名前のつけられない感情がどういう形であれ、表に出てきやすいタイミングなのだと言えるでしょう。
「捨てきれないもの」の発見と受容
雪いでも雪いでも断ち切ることができないという意味で思い出されてくるのは、鎌倉時代のお坊さんである一遍上人のことです。
一遍は、この世の人情を捨て、縁を捨て、家を捨て、郷里を捨て、名誉財産を捨て、己を捨てという具合に、一切の執着を捨てて、全国を乞食同然の格好で行脚していきました。その心の内にあったのは、彼が「わが先達」として敬愛していた空也上人の教えであり、それは次のように語られています。
念仏の行者は智恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもっともかなひ候へ。(『一遍上人語録』)
こうして捨てることのレベルを上げて畳みかけていった先で、一遍は「捨ててこそ見るべかりけれ世の中をすつるも捨てぬならひ有りとは」という歌を詠みました。いわく、捨てきれるだろうかというためらいさえも捨ててしまえばいい。あらゆるものを捨てた気になって初めて、どうしたって「捨てきれないもの」があることに気付くのである、と。
それはみずからの弱さの表明であると同時に、救いを求めていくための命懸けの実践だったのでしょう。今週のいて座は、そんな一遍の後ろ姿を頭の隅に置いて過ごしてみるべし。
いて座の今週のキーワード
春恨幾条条