うお座
まだ生きている身として
「世に忘らるる身」の悲哀
今週のうお座は、『死なば世に忘らるる身か月の秋』(小山良一)という句のごとし。あるいは、死者と生者の記憶のバトンを渡していこうとするような星回り。
作者が病臥の身だったのか、それとも戦地で負傷中だったのかは分かりませんが、今まさに死に直面しつつある者にとって、すぐに自分も生まれた世界から無関係になって「世に忘れられる身」となってしまうのだと想像することは、まことに淋しいことなのでしょう。
掲句はそういったことを、作者が生々しく痛感したある月夜の晩の独白なのだと言えます。
「芸術は長し人生は短し」という言葉もありますが、しかし長く人びとに愛される芸術品を遺した者も「死なば世に忘らるる身」の悲哀をどうすることもできずに、やはり死んでゆく他はなかったはず。
もしどうしても「忘れられない」ということがあるとすれば、それは生き残っている側の人間としての私たち一人ひとりが、かつてこの世に生きたすぐれた人々の深い遺された心を繰り返し思い出しては、それを忘れられないでいるということがあるだけなのです。
そういう遠く離れたところにいる生者を思いながら、作者は瞳を大きく開けて、やはり遠い遠いところをじっと見詰めていたのかも知れません。
9月18日に自分自身の星座であるうお座で中秋の名月(満月)を迎えていく今週のあなたもまた、すでに目の前から去っていった死者の思い出を浮かべつつ、我が身の来し方行く末についても思いを馳せてみるといいでしょう。
生者の日常こそが最大の舞台
ここで思い出されるのが、「高く心を悟りて俗に帰るべし」という江戸時代の俳人・松尾芭蕉の遺語です。芭蕉は生涯にわたって何度も命がけの旅に出ては、それを俳句(作品)にしただけでなく、生きざまにまで昇華していった人でした。
彼はひとつの道に立つ求道者として、センセーショナルな手法を用いた句や、他にはないモチーフの取り合わせを試したりといった芸術家らしい前衛的な試みを数多く為しましたが、最終的にはいかに深く重い句を作れるかではなく、俗に流れずにいながら「俗に帰る」ことができるかをみずからの句境の帰結としました。
つまり、壮大なテーマを扱ったり、いかにも難しそうなことに取り組んでみせるよりも、一見すると無意味なことや、微細な現実に心を向け、その取扱いに習熟していこうとした訳ですおそらくそこには、「今ここ」のささいな場面にこそ、偶然と必然のダイナミックで、思ってもみなかったような新しい結びつきを得られるし、拾うことができるのだ、という自信の裏返しの確信があったのでしょう。
今週のうお座もまた、芭蕉とまでは行かなくても、自分のミクロな日常でこそ偶然と必然とのダイナミックな結びつきを見つけていきたいところです。
うお座の今週のキーワード
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