うお座
おぼつかない足取りでいけ
周縁からこんばんは
今週のうお座は、『狂院をめぐりて暗き盆踊り』(西東三鬼)という句のごとし。あるいは、いつの間にか内面化されていた排除の条件がおのずと溶けていくような星回り。
自句自解によれば、「狂院」とは京都市外の精神病院のことで、敗戦の翌年の光景だったのだそうです。周囲の暗い辻々からいろんな人びとが集まってきては、「盆踊り」と称して夜更けまで病院のまわりをぐるぐる回りながら踊っていたのかも知れません。
現代においても、病院の内にも、外にも、世の中精神のバランスを崩した人で溢れかえっているという話をすると、みな決まって「(自分はそこまででもないけど)本当にそうだね」などと相づちを打ってくるものですが、そうして問題が起きていないふりを続けるのは問題をこじらせる一番の悪手でしょう。
それならいっそ、掲句のように、「普通」の定義から外れたような人のところへ行って、一緒になって踊り狂ってしまったほうがよっぽど健全のように思われます。
フーコーは『狂気の歴史―古典主義時代における―』の中で、近代に誕生した精神医学によって精神病棟に閉じ込められるようになった狭義の“狂人”以外にも、いまも現に社会は「周縁的存在」を排除し続けており、そうした人びとは以下の4つに分類されると述べています。
a 経済に寄与しない者(働かない人、その能力のない人)
b 通常の社会関係を結ぶことができない者(放蕩者、色情狂、浪費家)
c 普通の言葉を信用しない者、異常な言辞を弄する者(冒涜者、文学者、哲学者)
d 宗教的祝祭から排除される者(障害者、高齢者)
その意味で、20日にうお座から数えて「集合的交わり」を意味する12番目のみずがめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、まずは自身がこれらのどれに当てはまるのか、また周囲にいる人間がもれなくこのいずれかに当てはまるのではないかと、改めて自問してみるといいでしょう。
無頼漢たるべし
俳人の森澄雄が、以前どこかで「俳人というのはどこかで破落戸(ならずもの)でなきゃ出来ない」ということを言っていたのを読んだことがあります。これはゴロツキとかヤクザとか言うのではなくて、「無頼漢」ということでしょう。
つまり、文字通り「頼りない人間」という意味です。逆に「頼りある人間」とはどういう人のことかと言えば、それは何の抵抗もなく社会の中で生きていけるということ。
うまく周囲に溶け込んで、世間の価値観にも調和して、それで多少の不満はあっても、まるでやっていけないということはなく、人並みにしあわせになっていけるだろうという感じがする。そういう人は俳人やアーティストになどなる必要がない。
17音のきわめて短い詩形にみずからの生きざまを映すなどということは、自由に想像の世界に遊ぼうとすることに他ならないのだから、いつでも自分というものを投げ出せるような、エイヤと放ったところで自分がどこかに浮かんで句ができるようなところがなくてはならないと言っているんです。
もちろん、この「句」というのはイラストでも音楽でも刺繍でも、本当は何でもいい訳ですけれど、それは立っているのもやっとな、おぼつかない闇の中に足をつっこんでやっと生きているという感覚に裏打ちされていなきゃ、本物にはならないということなんですね。
今週のうお座もまた、そうした俳人らしさに通じるような、とても賢く健康的になど生きていられないという「闇の感覚」が深まっていくのを感じることができるのではないでしょうか。
うお座の今週のキーワード
周縁に足をのばしていくこと