うお座
捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
恐るべき行為
今週のうお座は、アニー・ディラードの文章術のごとし。あるいは、自身の仕事や成果の最良の部分をこそ切り捨てていこうとするような星回り。
名エッセイストで知られるアニー・ディラードが、文章を書く上で大切にしている秘訣について綴った『本を書く』という本のなかに、次のような一節があります。
あなたが放棄しなければならないのは、単にもっともよく書けた文章というだけでなく、皮肉なことに、今まで書いたものの中でももっとも核になる部分なのだ。それはもともとの主要な一節である。そこからほかの文章が派生する部分であり、そのためにあなた自身その作品を書く勇気と得たというエッセンシャルな部分である。
つまり彼女は、ここだけは決して切り捨てていはいけないし、その必要などないと心底思える最良の部分をこそ放棄せよ、それが文章術だと言っている訳で、はじめて読んだときはぶったまげたものでした。
いや、正直に言うと、いまだに納得はいっていません。しかし、書き手はそれを書くのに苦労した文章ほど、自分がどれだけ苦労したか、ねぎらいや称賛が必要かを知ってもらうために、最後まで頑固に残そうとするというアニーの指摘にぐうの音もでないでいる自分がいることもよく分かっているのです。
つまり、それは本当の意味で作品に必要だから書かれた文章ではなく、誰かに見せるために、しかも作品の本質とは無関係な理由のために取っておかれてある場合が多い訳で、それをアニーは「作家がへその緒を切る勇気がなかった作品はたくさんあ」り、それは「値札を外さなかったプレゼント」に他ならないのだ、というじつにうまい言い方でばっさりと切って捨てています。確かに、読者からすれば、書き手からのプレゼントはともかく、それを書くのに幾らかかったなど知りたくもないでしょう。アニーは続けます。
道そのものは作品ではない。あなたがたどってきた道には早や草が生え、鳥たちがくずを食べてしまっていればいいのだが。全部捨てればいい、振り返ってはいけない。
7月12日にうお座から数えて「反省」を意味する6番目のしし座に金星(平和と調和)が入っていく今週のあなたもまた、アニーがいう「(誰かのための)プレゼントについたままの値札」を外していくことがテーマとなっていくことでしょう。
多和田葉子『エクソフォニー―母語の外へ出る旅―』の一節
ドイツに移住し長年にわたりドイツ語と日本語の両方で書かれた小説や詩を発表し続けてきた作家の多和田葉子は、母語の外に出た状態をさす『エクソフォニー』というエッセイ集の中に収録された「声をもとめて」という文章の中で、次のような体験について書いています。
先日、ハノーバーで知り合ったあるソプラノのオペラ歌手の話によると、彼女はプロになってからもう何年もたっているが、時どき、自分の発声を外から見てくれる先生のところに行くのだそうだ。歌っているうちに前にはなかった新しい癖が出てくる。わたしも声を出していて、似たような経験をした。これまで苦労なくうまくできていたことが急にできなくなったり、せっかく学んだことが歪んでいくこともあるし、これまでとてもできそうにないように思えたことが、いつの間にかできるようになっていたりもする。二つの言語が頭の中にある場合は特に、両者のバランスが安定しないので、発せられる音の体系が絶えず変化しているのかもしれない。
つまり、学習の集積というのは、(大抵は恥ずかしく思っているような)なまりや癖をなくして安定させる方向にではなく、むしろそれらを深め、創造的に追求して変化し続けていく方向に作用していくということ。その意味で今週のうお座もまた、自分だけの「声をもとめて」いくことを大切にしていくべし。
うお座の今週のキーワード
平均点以上の誰かの真似ではなく