うお座
夢のなかで頬をつねる
全てがゆめまぼろしのような春
今週のうお座は、『皆行方不明の春に我は在り』(永田耕衣)という句のごとし。あるいは、自分なりの身の処し方についてある種の覚悟が求められていくような星回り。
春になって周りにいた人たちがどこかへ消えてしまったような寂しさや孤独を詠った一句。そうして、自分だけが取り残されたような気持ちを「我は在り」と言い表している訳ですが、これは子どもの頃、春休みになってこれまでと同じように友だちと遊べくなってしまった時の何とも言えない心許なさにも通じているかも知れません。
春は出会いと新たな始まりの季節ですが、それと同時に別れや変化、進学、引越しの季節でもあり、仲間や家族と離れ離れになったり、社会的な立場や関係性が変わっていったりする季節でもあります。自分はどこへ向かっているのか、自分の居場所はどこなのか、といった不安や迷いを感じる人も多いはず。
その意味で、この俳句は春という季節の空気感に混じった、そんな人たちの声なき声を代弁しているのだとも解釈できますし、逆に、すべてが不確かでゆめまぼろしのような春という季節にあってなお、溶け出しきれずに残っている「我」の業の深さのようなものを詠んでいるのだとも考えられます。
いずれにせよ、28日にうお座から数えて「身構え」を意味する6番目のしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、以前と同じようにはいられなくなってしまった「我」を取り巻く状況の変化への適応を求められていくことでしょう。
浅はかなインテリを打ちのめす
20世紀のはじめに娼婦の私生児としてパリに生まれ、乞食や泥棒、男娼など、まさに「裏世界」の稼業をしながらヨーロッパ各地を放浪したジャン・ジュネが、その自らの半生について半分は事実、もう半分は虚構に基づいて綴ったのが『泥棒日記』でした。
一般には聖性を反転させた、同性愛、盗み、裏切りという三位一体の悪徳の美学の結晶などと評価されていますが、実際に綴られているのは、ご主人様のような彼氏に尽くす<わたし>を演じる自分と、そこからすっと醒める話であったり、友達にお金を送る約束をしたかと思うと、その札束を捨てるつもりでびりびりに破いてしまい、それなのに直後にそれらを糊でつなぎ合わせるといった、どこか歪んだ痛々しいエピソードなのですが、その合間に、ゆめまぼろしの「表世界」で浮ついているような浅はかなインテリを打ちのめす、次のような記述も残しています。
わたしはさらに、わたしの罪によって知への権利を獲得したのだ。わたしはよく思った、思惟する権利を持たずに思惟する人があまりに多い、と。彼らはこの権利を、思惟することが自己の救済のために不可欠である、という底(てい)の事業によってあがなったのではないのである
その意味で今週のうお座もまた、ジュネや掲句の作者もそうであったように、冷徹な眼差しでみずからの罪穢れを見つめつつ、それらに化粧を施していく位の肝の太さがほしいところです。
うお座の今週のキーワード
春らしい空気感のなかでも溶け出しきれずに残っている「我」の業の深さを歌に詠む