うお座
めざめよ底力と生命はいう
祝祭の予兆
今週のうお座は、徘徊するラスコーリニコフのごとし。あるいは、自分でもうまく説明できないような不気味なエネルギーを発していくような星回り。
ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公で、頭は回るが仕事がないラスコーリニコフは、亀が甲羅の中に入り込むように穴ぐらのような部屋に引きこもり、散らかった室内でひたすらごろごろして過ごしていました。
こうした不潔な生活スタイルや、むやみやたらに他人にムカついている態度などは、村上春樹の小説に登場するどこか“のっぺり”とした主人公とはじつに対照的ですが、むしろこうした「精神の内圧」の高さや「過剰さ」こそが、ドストエフスキー作品特有の爆発的な祝祭性を生み出す原動力となっていたのではないでしょうか。
ラスコーリニコフはただ引きこもっているだけでなく、不意に街をうろつきます。普通はそうした散歩で鬱屈した気分も少しは緩和されるはずなのですが、そうはならず「ところでおれはどこへ行こうとしているのか?」と考え込んだり、歩きながら独り言をいっては道行く人をびっくりさせます。
そうしてブツブツせかせか歩き回る人は、不気味なエネルギーを発しているもので、ただ元気がないのだけならいいのですが、気は発散せずに内部にこもっているのに、うろつきまわる行動的なタイプはじつに危険であり、実際ラスコーリニコフはやがて、金貸しの老婆殺しというとんでもない一件を引きおこしてしまいます。
しかし、それは彼がサイコパスだったからでも、心神喪失状態にあったためでもなく、ドストエフスキー自身による説明によれば「彼の内部には何かしら彼のまったく知らない、新しい、思いがけぬ、これまで一度もなかったものが生まれかけていた」のであり、「彼はそれを理解したわけではなかったが、はっきりと感じていた。感覚のすべての力ではっきりとつかみとっていた」というのです。
同様に、29日にうお座から数えて「再誕」を意味する5番目のかに座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、からだの奥底にまで届いてしまう「感覚」に、いかに直接的に触れていくことができるか、ということがテーマとなっていくでしょう。
吉野弘の「生命とは」
詩人が50代になってから書かれたこの詩は、どんなにがんばっても人間は1人では絶対に生きていけないのだという黒黒とした実感に満ちています。冒頭部分を引用してみましょう。
生命は
自分自身だけでは完結できなうように
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界も人生も、ちっぽけでささやかなことから出発するのでなければ、その全景は決して見えてこないものですが、この詩はそうした想像力の使い方のお手本のように思えます。
特に引用箇所の最後の3行には、厳しく慎ましやかな欠如への自覚と、実り豊かな享受の喜びとが見事に同居している精神性が宿っており、生命における“欠如の原理”がいきいきとした流動体のようになって詩人に注ぎ込まれているに感じます。
今週のうお座もまた、理屈ではなく体感として、この世はじつに“関係だらけ”なのだという真実にあらためて直面していくことでしょう。
うお座の今週のキーワード
黒黒とした実感