うお座
連綿としたつながりの中で
仏様の手のうえで転がる
今週のうお座は、「実存協同」の鎖のひと繋ぎのごとし。あるいは、愛に依って結ばれた交互媒介事態としての“(生の実感の)復活”に浸っていこうとするような星回り。
田辺元は最晩年にあたる1950年代に最後の力をふりしぼってエッセイ『メメント モリ』を発表しましたが、そこには次のような一節があります。
自己は死んでも、互に愛によって結ばれた実存は、他において回施のためにはたらくそのがたらきにより、自己の生死を超ゆる実存協同において復活し、永遠に参ずることが、外ならぬその回施を受けた実存によって信証せられるのである。(中略)個々の実存は死にながら復活して、永遠の絶対無即愛に摂取せられると同時に、その媒介となって自らそれに参加協同する。
ここで田辺は死者との「実存協同」ということを説いていますが、これは禅籍の『碧巌録(へきがんろく)』に出る師弟の話に基づいています。
修行僧の漸源(ぜんげん)は、生死の問題に迷い、師の道吾(どうご)に問うたが、「生ともいわじ、死ともいわじ」という答えを得て、理解できませんでした。しかし師の没後、兄弟子の石霜(せきそう)の指導で悟り、その時、漸源は師がみずからのうちに生きてはたらいていることを自覚し、懺悔感謝したのだ、といいます。
しかしこのことは、禅の修行者に限らず、ぼくたちの日常においてごく普通に起こっていることなのではないでしょうか。田辺の場合は妻をうしない、死んだ妻が自分のうちに生きていると実感したことが大きかったようですが、それだけでなく、当時ビキニ環礁でのアメリカの核実験によって第五福竜丸が被爆し、核の脅威による死という事態に人類が直面したことを受けてもいたのでしょう。
大乗仏教の菩薩は、道吾のように、死後もなお生者のこころに復活して、弟子の漸源にそうしたように、衆生済度(しゅじょうさいど)の愛に生き続ける、すなわち、みずから菩薩として次に来る人を導くとされますが、「実存協同」の鎖というのは、そうしてはじめて「自己の生死を超」えていくことができるのかも知れません。
27日にうお座から数えて「一体感」を意味する4番目のふたご座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、みずからがどんな「実存協同」の鎖のなかにいるのかという視点から、改めてそのまなざしを開いていきたいところです。
種の否定的統一
田辺は「個」というものを単に「種」を分割していった結果現われてくるものとして考えるのではなく、その根源としての多様でカオスな種自身が、みずからを否定し、いわば種を蹴り立てるようにして生成されてくるものとして捉えていました。
そうした「種の否定的統一」としての個の生成は、卵を折れ込みをもった「襞」へと変えていくような働きによって可能となると考えた訳ですが、この難解な田辺の考察について中沢新一は『フィロソフィア・ヤポニカ』の中で次のように端的に言い換えています。
「種」というカオスがなければもとより「個」などはなく、また「個」によって現実化されない限り、「種」はついに仮想的な場所としてとどまりづけることになる。有は非有の多様体をみずからの基体とし、カオスの内部から有は生成するのだ。
ここで云う種を現実化する「個」とは、先の禅問答に登場するような「師」=先覚者に他ならず、自分の後につづく「弟子」を生み出していくためのきっかけとなっていく訳です。
今週のうお座もまた、「種」から生み出された「個」が再び前個体的な場所へと還元されていくなかで、そうした師弟の関係性に近いものを実感していけるかも知れません。
うお座の今週のキーワード
おててとおててを合わせてしあわせ