うお座
きみたちは真面目すぎるんだ
現実に変容をもたらす器
今週のうお座は、寺山修司の地獄絵体験のごとし。あるいは、抑圧し圧殺していたものが一挙に浮かび上がってくるような星回り。
歌人にして劇作家であった寺山修司は、自叙伝『誰か故郷を思わざる』の中で幼少時の地獄絵体験について、次のように語っています。
生まれてはじめて地獄絵を見たのは、五歳の彼岸のときだった。(中略)その古ぼけた地獄絵のなかの光景、解身(げしん)や函量所(かんりょうしょ)、咩声(びせい)といったものから、金堀り地獄、母捨て地獄にいたる無数の地獄は、ながい間私の脳裡からはなれることはなかった。
私は、父が出征の夜、母ともつれあって、蒲団からはみださせた四本の足、赤いじゅばん、20ワットの裸電球のお月さまの下でありありと目撃した性のイメージと、お寺の地獄絵と、空襲の三つが、私の少年時代の三大地獄だったのではないか、と思っている。
だが、なかでももっとも無惨だった空襲が、一番印象がうすいのはなぜなのか今もよくわからない。蓮得寺の、赤ちゃけた地獄絵の、解身地獄でばらばらに解剖されている(母そっくりの)中年女の断末魔の悲鳴をあげている図の方が、ほんものの空襲での目前の死以上に私を脅かしつづけてきたのは、一体なぜなのだろうか?
寺山はこうした体験を抑圧していた訳ではありませんでしたが、その体験が自分を脅かしているという思いが胸中奥深くに長期にわたって“持続”し、蓄積されていくうちに、その体験にまつわる記憶自体が、火山のごとく寺山にとって自身の現実に変容をもたらす器のようになっていったのではないでしょうか。
その意味で、6月7日夜にうお座から数えて「決定的なシーン」を意味する7番目のおとめ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自身の心の奥底に溜め込んできた記憶がマグマのように吹き出すことで、現実をとりまく景色が変わっていきやすいはず。
物語をいかに作るか?
キューバの映画学校で若手脚本家やその卵を対象に行われた、30分のテレビドラマの脚本を仕上げるためのワークショップや討論をまとめたガルシア=マルケスの『物語の作り方』には、ある印象的なシーンがあります。
それは、誰かがヘリコプターが雄牛を吊るしてプールの上を飛ぶシーンを提案すると、マルケスが、これで決まりだ、そのシーンで始めればいい、とまで言う。こういうシーンが浮かんだら、もう勝ったようなものなんだと。あるいは、昭和天皇崩御の記事の写真から、皇后のさしていた雨傘に着目し、ここにインスピレーションを生み出す何かがあると訴えるのです。
こうした決定的なディティールやシーンから、ひとつの物語がたちあがっていくということについて、マルケスは参加者に向けて次のようにも言い直しています。
このストーリーには気違いじみたところがない、そう言いたいんだ。君たちは真面目過ぎるんだよ。
つまり、すべてを原因と結果の連鎖でつなぐ必要はないし、むしろどこかに必ず気まぐれな、ただ、なにか神秘的な要素がなければならないのだと。そう、まるで幼い寺山が見た地獄絵のように。
そして今週のうお座もまた、自分や自分の人生にはどうしても必要な飛躍を見出し、意図的に取り入れていくことがテーマとなっていくでしょう。
うお座の今週のキーワード
このストーリーには気違いじみたところがない!