うお座
カオスに振り切れる
巻きつき/巻きつかれる錯綜した文脈としての私
今週のうお座は、メルロ=ポンティの「絡み合い」のごとし。あるいは、互いに活力を与えたり与えられたりしていくような星回り。
哲学者メルロ=ポンティは、複雑な様相を呈する諸関係の集合としての身体性について論じた『見えるものと見えないもの』のなかで強調しているように、われわれは何かに触れるという行為のなかで必ずやその何かに触れられているのであり、その意味で、われわれは働きかけられることなしに働きかけることはできないのです。
それは見る身体への見えるものの巻きつきであり、触れる身体への触れうるものの巻きつきであって、それはとりわけ、身体が自分自身を見、事物を見、それに触れる自分自身に触れるときに明らかになるのだが、かくして同時的に、触れえるものとしてそれは事物のなかに降下するのだ
ここでいう「巻きつき」とは「巻きつくこと」を意味するenroulementのことなのですが、それは同時に「(糸などの)巻かれたもの」をも意味し、これら2つの意味は、ひとつのうねりとなって「私の身体と同様に他の諸身体をも貫き、それらを賦活する」のです。
その意味で、4月13日に自分自身の星座であるうお座で木星と海王星が重なっていく今週のあなたもまた、一方的に他者や考えを操作していくのではなくて、触れることによって自分もまた多大な影響を受けることを受け入れていくことがテーマとなっていくでしょう。
身の程知らずになれ
白洲正子は『お能』の中で、能の大成者である世阿弥の芸術家としての天才性について十二分に認めた上で、「芸術家として「してはならないこと」を方便として使いこなせた人が世阿弥であります」と述べました。この世阿弥が実行した「してはならないこと」とは、すなわち「色」を使うこと。白洲正子は「もし世阿弥が美しい少年でなかったとしたら、お能はいつまでたっても浮かびあがれなかったかも知れない」とまで書いていました。
つまり、将軍(権力者)への身売り行為ですね。周囲からのさげすみを受けながら、世阿弥が平然とそういうことができたのは、乞食の技とされた能の専門家として、世阿弥が「身のほど」を肝に銘じて知っていた人だったからなのだと、彼女は結論づけています。このあたりは、後の千利休が、茶道家として秀吉に重用されながらも世渡りを恥じて抵抗したために、最後は切腹に追い込まれたことと対照的と言えるかも知れません。
同様に、今週のうお座もまたそんな世阿弥くらい、自身の存在や取り巻く関係性を書き換え続けることに躊躇なく踏み込んでいきたいところです。
うお座の今週のキーワード
痛いほど身の程を知ってこそ、それを手放せる