うお座
流れよ涙とドット絵は言った
「百聞は一見に如かず」を疑え!
今週のうお座は、「誤読」の第一歩を踏み出していくがごとし。すなわち、ただの「情報」から共振する「価値」への転換を自らの想像力を通して図っていくような星回り。
ある小説の一節が心に突き刺さってくるとき、そこでは想像力が産みだすプロジェクションマッピングが浮かんできますが、これはいわば「百聞は一見に如かず」が脳内で起きているのだとも言えます。
逆に言えば、普段の私たちはバラバラに取得された記号などの「百聞」を解釈しながら組み立てていくという作業を行っている訳で、その過程で生まれる摩擦によってオリジナル体験のピュア度はずいぶん下がってしまってしまいます。
昨今、隆盛しているVRやARなどは、摩擦のリスクを最初から取り払って、ゴーグルなどを通して360度の動画とともに、オリジナルを共感覚的に追体験していこうということが発想の根本にある訳ですが、そこには1つの問題が出てきます。
それは、最初から出来あいの体験パッケージを与えられ、ただインストールするだけなんて不毛じゃないか、と。ただ脳に直接流し込まれる体験を享受するという在り方なんて、なんだか管をたくさん通された植物人間みたいではないか。
そこには<私>という受容器との相互作用が起きないために、鮮明ではあっても、なんだか決定的に物足りなってくるのです。そして、今のあなたに必要なのも、まさにそうした類いの「物足りなさ」を打ち破っていくための一手と言えるでしょう。
誤読の創造性
例えば、かつてのファミコン時代のドット絵は画面上でたった25色しか発色できず、キャラクターも三等身、動かし方もかなり限定されていたものでしたが、だからこそ、ドット絵には魂が込められており、登場人物たちの情景や心情がありありと思い起こすことができました。
それは、情報のピュア度としてはざらざらとしていて、摩擦があることのメリットも存在しているのだということ。そして解釈にしろ、なんにしろ、そこに行き違いやすれ違いがあることのメリットは「誤読の可能性」という一点にあるのではないか、ということです。
「誤読」は、機械が偽装することはできても本質的に持つことのできない、生命に特有の「創造性なゆらぎ」なんです。
逆に言えば、夫婦であれ恋人であれ、関係性が発展していくときというのは、誤解の余地が生じて、そこに一方が踏み込んでいった時なんですよね。もしあなたが、そうした誤解の余地を与えたり、誤解することを恐れているのなら、きっとそのこと自体が大いなる誤読なのだろうと思います。
今週のキーワード
創造はゆらぎから生まれ、ゆらぎは誤読から生まれる