うお座
Open your eyes!
瞑想的日常の効用
今週のうお座は、踊るように作務する小僧のごとし。あるいは、日常の1コマ1コマを「動の瞑想」にしていくような星回り。
禅宗では作務(さむ)という、農作業や掃除などの日常作業を修業そのものとして大変重視されており、道元禅師などは、『典座教訓』という本まで書いて、そうした作務として食事を作る事、また食事を頂くことの大切さを訴えました。
これは静かな部屋でただひたすら目を瞑って行う瞑想とは異なる、いわば「動の瞑想」であり、そうして“生活をしながら”自分を見つめていくことが、神さまのことを知る一番の近道だと考えられたのです。
反対に、なんでも“仕方なしに”それを行っている人というのは、往々にして自分を見ていない人が多く、その代わりに他人を見つつ、彼らと比べながら自分の生活や人生を決めていく傾向が強いように思います。
目を開けましょう。そして自分を見つめていきましょう。そのなかで、必ず思い出されてくることがあるはずです。
連続する波のひとつとして
トルストイは『人生論』という著書の中で、死後の生ということを一生懸命考えているのですが、そこには次のような一文が出てきます。
「人間は、自分の生が一つの波ではなく、永久運動であることを、永久運動が一つの波の高まりとしてこの生となって発現したに過ぎぬことを、理解したときはじめて、自分の不死を信じるのである。」
普通、死後に残るのはその人の思い出だけですが、トルストイはそうではないと言っているのです。
ひとつひとつの「波」はあくまで大きな海の一部であり、海流としての自分(世代を超えた働きかけ)という視点で生きることができた場合、その人が死んで肉体は滅びたとしても、世界に対して作られた関係によって、より一層その働きが力強くなることもあるのだと言うのです。
こうした視点もまた、ある意味で作務を大切にする禅宗の修行観に通じていくものと言っていいでしょう。
今週のキーワード
連続性のなかで自分を見つめる