うお座
俯瞰の視点と一つの世界
庭をつくるということ
今週のうお座は、庭をつくっていく「石立僧」のごとし。あるいは、感覚を研ぎ澄ませて繰り出す一挙手一投足の連続を、ひとつの世界まで昇華させていくような星回り。
今でいう庭師のことを、昔は「石立僧(いしだてそう)」と呼んだらしい。
石を立てる禅僧がまず空間を調べて、どこに点を打てばいいのか、宇宙が始まる特異点はここだというところを発見する。そこへ細い石を立てることが庭造りの最初で、そこから川を掘ったり、木を配置したり、空間を広げていく訳です。
これは俳句で発句を立てることにも通じますし、特に短編小説などで最初の一行が最も重要とされるのも同じ理由からでしょう。
今週のあなたもまた、どこかでそうした新しい世界を開いていくための最初の通過儀礼を遂行していくことがテーマとなっていくように思いますし、その際、どこまで自分を研ぎ澄ませて基準となる点を打っていけるかが問われていくはず。
自分のやろうとしていることが、たんなる偶然の産物なのではなくて、大いなる必然性をもった神聖な儀式なのだという感覚を失わないようにしていくことです。
正岡子規のこと
石を立てる禅僧のごとき、研ぎ澄まされた神経ということで思い出されてくるのは、底意地の悪そうな石川啄木ではなくて、食い意地の張っていそうな正岡子規。
カリエスという病気を患って長年病床に臥していた彼は、やむにやまれぬ事情で空間が非常に狭まっていきます。
その結果、限られた空間をものすごく繊細に描写し始めるだけでなく、何度も体から抜け出して、狭い庭を見下ろしていく幽体離脱のような体験を重ねていき、ついには自分の死体まで風景の一部として詠んでしまうところまで行き着きます。
「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」
鶏頭は、秋に細かい花を咲かせる植物で、公園や庭先などによく観賞用に植えられています。
それが14、5本も「ありぬべし」すなわち、きっとあるに違いない、という意味ですが、どこかその生き生きと咲き乱れている花の赤と、まさに生命が燃え尽きようと喀血している間際に手に受けとられた血の赤を対比的に詠んでいるようにも感じますし、もうこの句そのものが垂直に立てられた石(天への問いかけ)のようにも思えてきます。
現代は、スマホやテレビなど遠隔的に情報を集められますから、子規のように意識が極限まで冴えわたった状態を維持するのは難しいでしょうけれど、やってみる価値はあるかもしれません。
今週のキーワード
『作庭記』と枯山水