てんびん座
可能性としての俗物
真の俗物とニセモノの俗物
今週のてんびん座は、「婆子焼庵」という公案のごとし。あるいは、紋切り型の答えに満足するのでなく、一生ものの問いを引き受けていこうとするような星回り。
禅の様々な公案のうちでも、最も難しいとされる公案に「婆子焼庵(ばすしょうあん)」というものがあります。これは逆に言えば、この問題がある限りは決して修行を卒業できず、生きている限り禅の修行は一生続くのだと考えられていたという代物です。
ざっとその大意を説明してみると、あるお婆さんが1人の青年僧の衣食住すべての世話をして、20年がたったところで、年頃の娘に飯を運ばせ始めます。そしてある日、娘に青年僧へぴたりと抱きつかせて「このあたしをどうしてくれます」と言わせた。それに対し、青年僧は「枯木寒巌に倚りて、三冬暖気なし」とあらかじめ用意していた出来あいの句で答えた。ところが、報告を娘から聞いたお婆さんは、あれは俗物のニセモノだとして、青年僧を追い出し、草庵を焼き棄ててしまったのです。
普通に捉えれば、なんて理不尽な仕打ちなんだと思う訳ですが、柳田聖山の『一休 「狂雲集」の世界』によれば、一休はこの老婆は親切が過ぎており、さながら泥棒にはしごを貸してやるような老練なやり口だとして、むしろポジティブに捉えたのだそうです。
どういうことかと言うと、娘の誘惑を拒否した青年僧は立派ではあれど、「枯れ木が寒さ厳しさにすっかり馴染んでいる(ように俺は娘になんか眼中にない)」というその答えはいかにも四角四面であり、温かみや柔らかさに欠けている。だから一休は代わりに「枯れ木に再び春が巡って、青い芽を吹く」という詩を付したのです。
つまり、書物や先人から知識として何かを教わるだけでは決して会得することができない「内側から芽生えてくる力」を、老婆は娘をやることによって青年僧に促したのだと。柳田によれば、それくらい「禅と言えども、男女の問題だけは決まった解答を出せない」し、禅の修行者こそそういう問題を「自分自身で処理していく他はない」のだと考えられてきたのだそうです。
8月5日にてんびん座から数えて「自分では意識できないこと」を意味する12番目のおとめ座に金星が入ってゆく今週のあなたもまた、あらかじめ答えが決まっている訳でもない、一筋縄ではいかない問題に、おのずと引き寄せられていくことでしょう。
新しくも奇妙な生活
先の公案からの連想で、どうしても思い出されてくるのが安部公房の『砂の女』です。主人公であるアマチュア昆虫採集家の仁木順平は、新種の昆虫を探しに、鉄道の終着駅から海岸沿いの砂地へ出かけ、そこで虫を追ううちに、たえず形を変える砂丘によって外界から隔離された村に行き着きます。
そこには地表から15メートル掘り下げた穴の底の住居に住む人々がおり、彼らは家が埋もれてしまわないよう、毎日夜になるとバケツ何杯分もの砂を掻き出し、地上にいる村人にロープで引き上げてもらっていたのでした。
順平はそんな穴のひとつに誘いこまれ、その底にあった若い未亡人の家で、砂を掻き出す作業を手伝うことになる。しかし、思いがけないことに、翌朝目を覚ますと、穴の外へ出るためのはしごが外されてしまっていたのです。
それ以来、順平はなんとか外へ逃げ出そうと試みるものの、砂を運搬道具に入れ、地上の村人に引き上げてもらう作業を続け、合間に食事をしたり、眠ったり、情事を重ねていくうちに、次第に新しい奇妙な生活を受け入れ始めている自分に気付きます。
今週のてんびん座もまた、そうして砂の壁に包囲されてしまった主人公のように、急な人生の変転があったとしても、そう悪くないものだとあっさり受け容れてみるといいかもしれません。
てんびん座の今週のキーワード
「禅と言えども、男女の問題だけは決まった解答を出せない」し「自分自身で処理していく他はない」。