てんびん座
非合理性をまとう
ゆるマジ
今週のてんびん座は、『ゆるやかに着て人と逢ふ蛍の夜』(桂信子)という句のごとし。あるいは、誰かに溺れつつも、その誰かに醒めていくような星回り。
6月も中旬を過ぎると各地で蛍が見られるようになりますが、掲句もまた普通に考えれば、どこか蛍の出やすい水に近い場所へと約束して出かけていったのでしょう。
「人と逢ふ」とは、愛し合うもの同士のひそかに会うことであり、否が応でも緊張して力みが出てきがちなタイミングですが、だからこそ「ゆるやかに着て」という措辞が、絶妙に効いてくる訳です。
着物であれ、洋服であれ、少なくとも堅苦しい正装ではないはずですが、だからと言って「しどけなく着る」というのでもないし、「だらしなく着る」というのではもっとない。「ゆるやかに着る」とは、心の緊張をゆるめて、普段着の気分でといったところでしょうか。
そうすると、今度は「人と逢う蛍の夜」のロマンティックさがやや緩和されてくる訳です。もしかしたら、蛍の飛び交う水のほとりに直接行くというのでもなく、「もう、川では蛍が光ってるらしいよ」「へえ、蛍って見たことないな」「じゃあ今度行ってみる?」「いいね」といった会話を交わしただけなのかも知れません。
つまり、掲句はそこはかとなく官能的な空気感は漂っているけれど、官能に溺れていないというところに特徴があるのだと言えます。同様に、6月29日にてんびん座から数えて「距離感」を意味する7番目のおひつじ座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、誰か何かとの関わりの中に軽くたゆたっていくくらいのつもりで過ごしてみるといいでしょう。
「植物の時間」
私たちは、社会の行く末を考えるにも、人生の未来を計画するにも、ついつい「人間的な規格」という前提に基づいて考えてしまう傾向がありますが、人間の立ち位置がますます相対化されていくこれからの時代においては、そうした発想に立っているシステムは軒並み機能不全に陥っていくはず。
その点、『ひび割れた日常』というリレーエッセイ集に寄稿された伊藤亜紗の「植物の時間」というエッセイの中に、次のような印象的なくだりがありました。
先日、同僚の植物学者がしみじみ語っていた言葉に衝撃を受けた。「植物には、なぜそんなことをしているのか分からないことがいっぱいある」。要するに、人間の目からすれば無駄にしか見えないことが、植物にはいっぱいあるのだ。(…)植物は自分で環境を選べないから、変化に対応できるように可能性をたくさん用意している、ということなのだろうか。いや、それもたぶん人間の目から見た見方だ、とその同僚は諫める。人間はつい、あらゆることに合理的な意味があると考えてしまう。でも、たぶん自然はそんな風にはできていない。
今週のてんびん座もまた、ごく身近な未知としての植物や身体にこそ、「軽くたゆたう」上でのヒントを見出してみるといいでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
無駄が見え隠れしていること